十二国記での人物の呼び名(姓・氏・字など)
十二国記初読の人を混乱させる一つに、人物の呼称や敬称がややこしい、というのは認めざるを得ない点ではあると思う。いまだに自分自身もそれぞれの使い分けを理解しきれていないが、一度自分なりの整理を試みてみたい。
<注意> 以下の分類はあくまでも小説十二国記シリーズ内でのことであって、実際の古代中国などで使用されていた「姓」や「号」とは切り離して御覧ください。また、十二国記内のことであっても、一個人の考察になります。加えて、本記事内で使用されている原作引用文において、一部太文字表記になっている部分がありますが、これは分かりやすいよう私が太字表記にしているだけで、原作では太字にはなっていません。予めご了承ください。
概要分類表
$$
\begin{array}{c:c:c}
\text{種類} &
\text{説明} &
\text{例} \\\hline \\
\text{姓} &
\text{戸籍上の苗字。family name} &
\text{朴} \\ \\
\text{氏} &
\text{成人して独り立ちした時に自分で選ぶ苗字。} &
\text{丈} \\ \\
\text{国氏} &
\text{国名と同じ音の一字。王や麒麟が号として使う。} &
\text{慶国→景} \\
\text{} &
\text{景王、景麒} &
\text{雁国→延} \\ \\\hline \\
\text{名} &
\text{戸籍上の下の名前。first name} &
\text{高} \\
\text{} &
\text{昔は決して名で呼んだりしなかった。} &
\text{} \\ \\
\text{字} &
\text{呼び名。通称。} &
\text{阿選} \\ \\
\text{小字} &
\text{子供のころの呼び名。} &
\text{桂桂} \\ \\\hline \\
\text{諡} &
\text{主に王が崩御したあとにつけられる名。} &
\text{舒覚→予王} \\
\text{諡号} &
\text{} &
\text{} \\ \\\hline \\
\text{号} &
\text{称号。特に王や神仙など高位な人の敬称?} &
\text{景麒、真君} \\ \\ \\
\end{array}
$$
各呼び名とその考察
苗字系
姓
家族の固有名。戸籍に載せられる。生まれたときについて、以後変わることがない。婚姻する際、片方の籍に入る。本人たちの姓は変わらないが、戸籍がどちらかの許に統合される。子供は必ずその統合された戸籍にある姓を継ぐ。天が天命を革めるにあたって、同姓の者が天命を受けることはない。万里下71-72、白銀三巻69頁
前塙王の姓が張だったため、次王に張姓の者はない。したがって楽俊の本姓も「張」だが、次の塙王に選ばれることはない。
氏
大人(数え歳の二十歳)になって独り立ちしたら、固有の氏を選んで使う。万里上225-226、万里下72頁
官職に就いている人は封じられた領地名から取る場合がある?
具体例が一つしかないのであくまで仮説にはなるが、驍宗の「氏」である「乍」がおそらく領地名から取ったのではないかと推察される。
轍囲の乱が起きた時、驍宗は禁軍左軍将軍に就いており、上記の話の流れで所領の乍県から物資を運ばせたりしているので、いつから乍県が驍宗の領地になったかは分からないが、その土地の領主ということで付けた可能性もある。
驍宗の他に、もう一人領地と結びつけて「氏」にした可能性がある人物が、雁国のもと元州侯である、元魁。『雁史邦書』で、元魁の息子である斡由を説明する際、以下のように述べられている。
もしも元魁が二字の「名」なり「字」であったら、「元魁」と表記されているところが、「魁」の一字のみとなっているところから、「元魁」は「姓」または「氏」との組み合わせということになる。
というと、「元」はどこから?と考えると、元州の州侯であったため、所領の「元州」の「元」から取ったとするのは安直すぎるだろうか。
息子である斡由の「氏」は判明していて、これも実は「元」となっている。
「氏」は親子で継ぐものではないようなのだが、斡由も元州の令尹で同じく領地を元州内に持つであろうから、同じ「元」にしたのか……。
名前系(苗字に対して下の名前、いわゆるファーストネーム)
名
生まれた時にその個人に付けられる名前。戸籍に載せられる。昔は決して名を呼んだりはしなかったよう。昔気質の人は今でも名で呼ばれるのを嫌がる。万里上225-226頁
字
呼び名。通称。周囲の人が付けることが一般的?自分で付けたというのはあるかもしれないが、原作内ではそのケースは記述されていない。
侮蔑や揶揄を込めて付けられたり、一つ以上の字が付けられる場合もある(別字)。万里上48、華胥169、白銀三巻61頁
小字
子供のころの呼び名。幼名。
作中では蘭桂の「桂桂」しか出てきていないが、小さい子で言えば園糸の子供の「栗」も小字で呼ばれていてもおかしくない年頃だがどうだろう?
桂桂ぐらいの小さい子で名が判明している登場人物自体少ないが、八歳の李理や駿良(丕緒76頁)、十二歳ごろだとある清秀(万里上212頁)らが子供と記されているので、これらの名前も小字の可能性があるのか、また別に小字があってそれで呼ばれていたりもするのだろうか。
それ以外
号
称号。特にかなり上位の貴人を呼ぶときに使う称号だと思われる。
「号」として使われるのがはっきりしているのは、王・麒麟、王の近親者。王や麒麟は国氏を冠して号とするのが習わしになっているよう。
王の近親者に関しては奏国の例しかないが、以下のように記述されている。
これ以外に明確に「号」と指されて記述されていたのが、天仙である犬狼真君。
珠晶が彼に向かってこう問いかけ、真君は頷き返している。ここから、天仙・天神・神仙もそうではないかと推察される。
例えば、「玉女碧霞玄君」の「玄君」や(迷宮31頁)、天仙ではないが飛仙である梨耀の通称である「翠微君」(万里上43頁)など。
実在するかは不明とされているが、「玄君」繫がりだと、催生玄君、送生玄君、送子玄君などが語られているので(万里上320頁)、「玄君」は神仙に付けられる「号」ではないかと推察される。
最高神的な扱いで語られる「天帝」や実在していた神仙の「西王母」(黄昏412頁)も号にあてはまるのか。
王や麒麟もそうだが、上位になればなるほど下位の者と交わることが少なくなり「名」があってもそれで直接的に呼ばれることがなくなるので、作中でも「名」はおろか「字」も分からないままが多い。
「号」に関連して疑問に思うのが、称号と役職・官位との違いがいまいち不明。十二国記内では特に官職や官位でその人物を読んだりするが、それは号ではないのか……。
国氏
その国特有の氏。国名と同じ音をする一字。使用できるのは、王・麒麟・王の近親者のみ。これは、宝重を使える者が国氏を持つ者というところからの推察による(華胥262、黄昏191頁)。国氏に関して具体的に定義されている記述はないため、ほかにも国氏を持つ者がいるかもしれない。華胥262、黄昏191頁
奏国であれば「宋」。宋王、宋麟、宋后妃など号の一部として使用される。
王に重大な罪があった場合は、変わる場合がある(黄昏287頁)。
諡・諡号
王が亡くなったあとに付けられる名。だが、諡と諡号の厳密な違いがよく分からず……。基本的に一緒と考えていいのか……。
朱衡が尚隆に放った言葉で、「すでに諡は用意してある。興王と滅王がそれだ。」(海神41頁)とあるが、王という称号?を含めて諡になるのか、厳密には諡号なのか……。
組み合わせ問題
名前に種類がある際に問題となるのが、フルネームを名乗るときどういう法則があるのか、というものが出てくる。現代の日本のように、基本的に苗字と下の名前が一つずつしかない場合は、組み合わせにバリエーションなど発生しないので考える必要はない。だが、十二国記世界では、苗字と下の名前が大まかに分類して二種類ずつある。苗字は「姓」または「氏」、下の名前は「名」または「字」。
ということは、組み合わせが四組発生する。すなわち「姓・名」、「氏・字」、「氏・名」、「姓・字」の四つ。
個々の分類もおぼつかない中、組み合わせ問題も一貫性があるとはいいがたいので分類できるのかどうか分からないが、作中で出てきた例を挙げて考えてみたい。
姓・名
戸籍に載るのが「姓名」なので、一番かしこまった場面で名乗るときや公的文書などでフルネームで記載されるのがこちらになると思われる。実際、旌券の表には本人の姓名が書かれれる(万里上208)。また、珠晶が利広に入手してもらった秋官を立会人にした証書では、父親の名が姓名で書かれていた(図南69-70頁)。
常世内の公的文書の例としては、物語最後に記述される場合がある各国の史書。そこで初めて記述される人物は「姓名」が多いように思われる。
楽俊が延台輔に出した書状でも姓名の「張清」としていた(月影下172頁)。
李斎が昇山して泰麒に初めて挨拶した際も、「姓名を劉紫と申します」と、と姓名を加えて名乗っている(迷宮211頁)。
氏・字
作中内では自分でフルネームを名乗るときに氏字を使うというよりは、直接的に関係のない公人を呼ぶとき、十二国記内では他国の王を号以外で呼ぶとき、氏字が多い印象がある。
姓名で、史書には基本姓名が使用される、と書いたが、阿選のように乱を起こして国に大きな影響を与えたような人物は氏字で書かれていたりもする。
ほか「氏字」で記述またはその組み合わせで紹介されているのは以下の人物など。
氏・名
多くはないが、この組み合わせも出現する。
以下の二人が「氏名」の組み合わせで記述されている。
「姓名」のところで、巻末にある史書形式の部分で「姓名」で記載されることが多いと言ったが、昇紘は氏名の「籍恩」で記述されている。原作本文内で「氏名」で記述されているのは、昇紘に反した「殊恩」集団の説明の流れもあるので分かるが、史書に関しては「姓名」の方が正式なような気もする。
また、遠甫に関しても陽子に改めて「乙悦」と名乗っており、「~老師」というときには「氏」を付けると伝えるのであれば、「氏字」の組み合わせでは駄目だったのか、という疑問も残る。
やや話が逸れるかもしれないが、陽子に対して遠甫が「あんたが中陽子じゃね?」と、訊いていたが(万里上206頁)、これは「氏名」になるのでは?『慶史赤書』で、陽子の名前について以下のように記述されている。
陽子が「名」かどうかは明確に記されてはいないが、鈴に問われてそうだと言っている場面があるので(ただし、そこでの「名前」がここで議論している「名」に当たるかがやや不明確ではあるが)、ほぼ「陽子」が「名」で間違いない。
陽子が「中陽子」という「氏名」を利用していたのは、常世でおそらく馴染みがない「中嶋」という「姓」を避けたのと、景王の字として知られている「赤子」も使わなかったのではないか、というのが予想される。
蘭玉が字ではなくて「名」で呼ばれるのは別段嫌ではないと言っていたりもしていたので(万里上226頁)、もしかしたら常世の現状としては「氏名」で名乗ったりするのが一般化しつつあるのかもしれない。
姓・字
このパターンが一番少ないように思える。はっきりと確認できた事例はおそらく以下の一例のみ(ほかあればご教示ください(>人<))。
劉は「姓」で紫が「名」というのが判明しているので(迷宮211頁)、李斎はほぼ字になる。李斎は昇仙して長く公職に就いていたので、「氏」がない、または「氏」を公に使用していなかったのがやや疑問になる。ほかの人も、李斎の「姓」と「字」を結びつけて覚えているようなので、李斎の場合「劉李斎」の「姓字」で公に通っていたのか、と思う。
はっきりとしていないケースであえて挙げるなら、柳国で宿に入ってきた兵に名を聞かれて、祥瓊が名乗ったのは「姓字」の可能性がある。
この祥瓊が名乗っていた「玉葉」が「名」なのか「字」なのかがはっきりとしていない。というのも、このころ祥瓊は仙籍から抜かれ、月渓によって恵州の戸籍に入れられていたため、この玉葉という名前が「名」である可能性も捨てきれない。ただ、本来の父親(仲韃)の姓が「孫」であるというのと(万里上20頁)、玉葉は女神碧霞玄君の「名」であるというところから、同じ名として付けるのは不遜だとして、ほとんどは「字」として使われるというところから、字の可能性が高い。
ただ、同じ場面で同じく兵に名前を聞かれた楽俊は「姓名」で答えている。
「姓・名」のところでも書いたが、かしこまった場面で「姓名」で名乗るのが慣例的になっているようにも思われるので、いきなり問われたとは言え、公の軍や役所に属するであろう兵卒に訊かれているので、「姓字」で答えてもよいのか、という疑問も残る。
もろもろ個人的疑問
姓・氏・名・字 不明瞭人物
作中で通っている呼び名がはっきりどの分類か分かっていない場合が多いが(明確に「名」、「字」などと記載されていない)、フルネーム記載で言えば、以下の人物たちはどの組み合わせなのか、というのがある。
壁落人に関しては、もともと海客(日本人)ということもありこれが姓名である可能性はかなり低い。日本でも「壁」さんという苗字はあるようだが、日本を「革命に失敗して逃げ出してきた国」(月影下137頁)と言っているくらいなので、「壁から落ちた人」と自分を揶揄して「氏字」で名乗っていると考えるのが自然か。
院白沢に関してはどの組み合わせなのかがかなり迷う。初めて王である尚隆に接見する際(海神162頁)や、旌券の冢宰としての裏書きがこの名前で記されていることから(万里下37頁)、「姓名」であるのが一番自然ではないかと考えられる。「白沢」と名指しで呼んでいたのは斡由、尚隆、六太などどれも白沢より位が上の者ばかりなので「名」であっても不思議ではないが、白沢の年貌が五十かそこらなようなので(海神162頁)昇仙するその歳まで上位の者であっても周囲に「名」で呼ばせたりしていたのか、という疑問が残る。
赴葆葉は同じく商を手広くして、その国では有名であった珠晶の父、相如昇(図南29頁)から類推すると「氏字」になるのだろうか。如昇の家を指すときに、如昇の氏を付けて「相家」と呼ばれていたように、葆葉も「赴家」として名を馳せていたよう(白銀二巻332頁)。同じ商人の聯紵台(図南145頁)や室季和(図南155頁)も同じ法則で「氏字」となるのだろうか。
駁更夜の更夜は名ということが判明しているが、駁が「姓」か「氏」のどちらかが分からない。尚隆が仙籍をあたって調べさせていたので(海神126頁)、それなりの公文書的なものに名前が記載されていたと思われるが、どちらなのか。更夜の出自自体が不明で、六太に初めて会った時でさえ生まれながらの名前を覚えていなかったので(海神65頁)、おそらくもとの戸籍は消失していると考えられる。新しく戸籍に入れられる場合、戸籍上姓名は必須になるとしたら斡由にでも新しく姓を付けてもらったのか……。
草洽平に至っては、その名前が正頼から出ただけで当人が具体的に物語上で登場していないので、推測する術がまったくない。正頼が「洽平が」と呼び捨てにしているところから(白銀三巻201頁)、こちらは字かな、とも思うが常世人同士では上下関係などによっては「名」を呼ぶ場合もあるようなのでいずれの可能性も捨てきれない。
「名」と「字」の法則
個人的な印象では「名」の方は漢字一字に対し、「字」は二字である場合が多い気がする。しかし、「蘭玉」のように「名」であっても二字の場合もあるようなので、必ずしも一字ではないよう(万里上228頁)。字も一字の場合があるのだろうか。
下の名前が一字で呼ばれている人物がそもそも少ない中で思いついたのが、園糸の息子である栗。ただ、まだ三歳で幼いので「名」である可能性が高い(小字の可能性もあるが)。
また、常世ではいつのタイミングで「字」を名乗ったり使ったりし始めるのかもよく分からない。珠晶は昇山時の十二歳で(図南58・125頁)すでに字を使っている(姓名は「蔡晶」なので(図南29・413頁))。桂桂は十一歳になっても小字で呼ばれているので(黄昏332頁)どの種類の名前を使うかは、本人の意思や周囲の流れもあるのだろうか。
祥瓊も父親が王になって昇仙したときに使っていたかどうかは分からないが、十三歳で昇仙したときから使っていた可能性もゼロではない(万里上21頁)。
姓?or 氏?どっちを使うの問題
常世世界でも親しい間柄でない人などには上の方の名前に「さん」や役職を付けて呼ぶよう。だが、特に「~将軍」と呼ぶ際に、「姓」を付けて呼ぶ場合と「氏」を付けて呼ぶ場合の両方がある。
この法則性もよく分からない……。李斎と桓魋の「氏」が分からないので、もしかしたらこの二人はそもそも「氏」を名乗って(持って)いないのかもしれない。そうなると自動的に名乗れるのが「姓」になるため劉将軍、青将軍となっているかもしれない。
将軍ではないが、禁軍師帥であった項梁は「暗器の楚」として知られていたようで(白銀二巻167頁)、李斎と初めて会ったときも「私は禁軍中軍におりました、楚と申します」(白銀一巻51頁)と、名乗っている。こちらは「姓」なのか「氏」なのか。
驍宗が昇山して泰麒に初めて面会した際、「乍将軍」と自分で名乗っている。結局のところ、公であろうと私的であろうと、個人が希望する呼び方が尊重されるような気がする。
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