緑酒の盃を椎名林檎に

https://m.youtube.com/watch?v=HuZtLGHGvdo&list=OLAK5uy_kk7TkznNppjJ2gZ8PlX8zFxg98PPYiZ54&index=1


東京事変が先日リリースした「緑酒」を、毎日聴いている。毎日毎日、仕事のある日もない日も、落ち込んだ日も気分がいい日も「緑酒」を聴いている。一曲をリピートして、狭いワンルームの部屋を、毎夜「緑酒」で満たす。
今春社会人になったばかり、数年前に酒の味を知ったばかりの歳だが、味わったことのない緑酒の題がつけられたこの曲に惹かれた。

「緑酒」を初めて耳にした時、思い出したのは椎名林檎ソロの楽曲である「自由へ道連れ」であった。
「自由へ道連れ」を知った頃は、まだ学生生活の真っ只中にいた。年齢や保護者・学校等に守られていたその時代は、その中にいるときは不自由を感じていたが、いま外から思えば一番自由な時代であった。少しだけ窮屈で退屈な守られた世界の中で、林檎さんは仮初めではない自由へ手を引いてくれるように聞こえた。知らない世界の広さを教えてくれるようで、「自由へ道連れ」も大好きな曲だ。一時期は毎日聴いていた。比喩表現ではなく、文字通り本当に一日中聴いていた。
「自由へ道連れ」を狂った様に聞いていたその頃に「緑酒」がリリースされていたら、と何となく考えた。考えて、自分はなんて恵まれた世代に生きてきたんだろうと思った。働き始めていなかったら、林檎さんが「乾杯」と掲げてくれている緑酒に、きっと気付くこともできなかった。

学生を卒業し林檎さんが提示してくれたこの広い自由の世界へ来たわけだが、何となくやはり社会人の世界というのは渇いているように思う。何がと問われると的確に指摘をすることはできないが、自由であったはずの世界でなお自由を求めたくなる気持ちがよくわかる、気がする。
履き違えられた自由や、建前だけの自由、利用された自由、必要以上に主張される自由、挙げればキリがない。自由という単語にカテゴライズされ収まるものがある不自由の矛盾は感じるものの、それをどうにかしようとも思えない。自分ひとりでそれが何とかなるとも思えない。いざ本物の自由を前にしてしまうと途端に無力感を覚えてしまう。不自由に慣れ、受け入れた方が楽に生きられるのではと逃げてしまう。そんな中で本物の自由について思い出させてくれるのが林檎さんの曲であった。

学生時代、「自由へ道連れ」に陶酔していたあの頃、自分はいつか目の前に迎えるであろう本物の自由に太刀打ちできると信じて疑っていなかった。数年が過ぎ、本物の自由を前に何もできない自分を知った頃に「緑酒」を知った。目に見えない自由を具現化するように、でももう林檎さんは手を引いて眩しい世界へ連れて行ってはくれない。
どちらが正解、というのは、無いと思う。学生時代に「自由へ道連れ」に憧れたことも、社会人になり「緑酒」に酔ったことも、適切な時期に良い出会い方をしたと思う。そういう意味で、良い時代に生まれたと思っている。

伊澤さんの作曲とあって、ピアノの旋律が心地よく夜に似合う。(学問的な音楽は情けないほど全く分からないが、なんとなく好きだなあと感じる東京事変の楽曲を調べると伊澤さんが作曲していた、と言うことがよくある。同様に亀田さんの作曲だと優しいと感じるし、気分の良い深夜に聴きたくなる曲は浮雲さんの作曲であることが多い。林檎さんの作曲した楽曲は大抵少し疲弊したときに沁みる等、それぞれの傾向と分類が何となく自分の中にある)
毎晩「乾杯」と歌い始めてくれる林檎さんに、本当に酒を手に取ることもあるが、まだその美味さがイマイチ分からないのが本音である。だが彼女が一日の終わりにそう歌ってくれるのであれば、グラスの中身がお茶だろうがジュースだろうが牛乳だろうが、今はそれが最高に美味い一杯に感じる。このニッポンで働く衆のひとりとして、また彼女の世代に遅れ続いていく若人のひとりとして。これからのニッポンと、東京事変と、渇いた大人の世界に、今夜もそっとひとり、ワンルームの部屋を「緑酒」で満たす。いつか本当に美味い酒を味わうことができた時には、椎名林檎と彼女が愛する自由に大いなる敬意を表し、乾杯したいと思う。


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