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緊急事態宣言下の日本列島

 感染症に対する公衆衛生上の諸政策を、戦争という言葉で表現することが適切であるかどうかは、議論の余地があるだろう。しかしながら、対コロナウイルス「戦争」において、志村けんの死は、明確に、日本国民に対する宣戦布告と同じ効果を持った。我々は戦いの時を迎えた。四月が始まった。
 アメリカ合衆国の死者数が、異様な勢いで上昇し始めた。特にニューヨーク州の犠牲者数は凄まじく、果たしてこれは事実なのだろうか、今この瞬間、本当に同じ地球で起きている出来事なのだろうかと信じられない思いであった。面白キャラで知られるイギリスのジョンソン首相は自らがコロナに罹って入院し、集中治療室に運ばれた。
 首相や都道府県知事が、頻繁に記者会見を行うようになった。事態は緩慢に、そして確実に悪い方向へ進んでいるように思われた。記者会見のたびに、都市近郊のスーパーの店頭から、食料品が枯渇した。最初は米やミネラルウォーターが、次いで即席麺が、そして納豆が品切れとなった。米や水はともかく、どうして納豆が無くなるのか理解できなかった。東日本大震災の時を思い出した。
 あの時も納豆が無くなった。納豆の買占めはやめようというマスコミの呼びかけを、当時の自分は真に受けて買い控えをしていたら、最後には普段日常で消費している分まで全く手に入らなくなってしまったのだった。
 アルコール消毒液やマスクも、店頭から姿を消したままであった。

 四月六日に、仕事で国立を訪れた。駅の南口に建てられた旧駅舎の再現・保存施設が本日開業するとのことで、オープニングセレモニーが行われていた。テレビカメラも来ていた。取材スタッフも、JRの管理会社、中央ラインモールの職員も当然ながら皆マスクをしていた。入場者にはアルコールによる手指の消毒が義務付けられていた。かつてこの街のランドマークとして親しまれていたという、三角屋根の内側に入って、その天井を仰ぎ見た。
 事前予告のような報道が何度か行われた後に、四月七日、遂に緊急事態宣言が発令された。当初は大都市とその周囲の自治体に限られていたが、ほどなく日本列島全域が指定された。

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 妹から久しぶりにLINEが来た。自宅学習に励む小学生の甥と姪の姿が映っていた。この春から小学一年生となる姪にとっては、最初から大変なことになったと思ったが、短い動画を見る限りではその姿は元気そうだった。漢字と算数だけ教えておけ、他の事は後回しで良い、気楽にやれと返信しておいた。
 正式に緊急事態宣言が出される以前から、都市圏の各商業施設は自粛や休業を開始していた。職場近くのガストやサイゼリアも、宣言が出される直前には、完全休業に入っていた。ところが宣言が出された後に、担当大臣と都知事や大阪府知事の間で議論が行われ、飲食業は部分的に営業しても良いということになった。最低限の社会活動維持に、必要な業種であるという判断らしい。ファミレス各店は時間を短縮して営業を再開し始めた。座席の数は減らされ、一つおきに着席するようにレイアウトされていた。店内は閑散としていた。
 コンビニは営業を続行していたが、イートインは閉鎖された。いつも朝食を摂っていたナチュラルローソンのイートインが使えなくなったので、職場に朝食を持ちこんで食べることとなった。ただ、年輩の女性店員や、南アジア系の外国人男性店員の様子は、今までと変わらなかった。マクドナルドはテイクアウトのみの販売となり、居酒屋やレストランも、それぞれに昼食用の弁当を売り始めた。
 デパートは完全に休業していた。報道やネット動画が映す都心部の繁華街やターミナル駅は、明らかに人の数が激減していた。アベマのニュース番組の合間に映る、白昼の渋谷のスクランブル交差点も、かつてないほどの人の少なさだった。平日朝の満員電車を解消するというのが、前の選挙における小池都知事の公約の一つであったが、皮肉にもこのような形で達成された。
 他方で、郊外住宅地に立地するスーパーや商店街では、営業時間短縮のため、かえって人の密度が濃くなったことが問題視された。体感的にも、その指摘は正しいと感じられた。家電量販店やディスカウントストアもまた営業していた。実際に見た範囲では、特にドン・キホーテ武蔵小金井店の混雑が酷いものだった。それらの店の店頭には、衛生用品の欠乏と並んで、任天堂スイッチと、どうぶつの森が品切れであることが掲示されていることが常であった。
 switch版のどうぶつの森の発売日は、奇跡のようなタイミングの良さであった。このパンデミックを受けて各国政府から出されたステイホーム要請と、完全にシンクロしていた。世界的な巣ごもり需要を捉えたそのブームは、ほとんど全ての先進国を巻き込み、ゲームソフト史上に残る大ヒットを、極めて短期間において記録した。



大部分のパチンコ屋は自粛していたが、地域によって、また店によっては営業を強行する店舗も存在した。それらの店は自治体首長やネット世論から激しい非難を浴びた。
 全てが不徹底で、チグハグで噛み合わず、こんなことでウイルスと戦って勝てるのだろうかという疑念が拭えなかった。


 開業したばかりの国立駅旧駅舎施設も、当然ながらすぐに休業となった。入口脇のサイネージに、当分の間休館する旨が表示された。

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 アメリカの犠牲者が、ベトナム戦争の死者を超えることはほぼ確実だろうと、ネット上の誰かが算出した。その予測は現実となった。
 発売日の二日後に入手したどうぶつの森だが、遊んでいるうちにコレクション要素とクラフトゲーム要素に既視感と作業感を感じはじめた。結局の所、果物を拾い食いし、魚を釣り、木を伐って家を建て、鉄鉱石を掘って道具を作るのかと思ってしまった。またブラックバスかよ! ブラックバスなんて、ゼルダでもスターデューバレーでも、多摩川でも釣れるのに、新しい無人島に来てもまた釣るのか? この島の生態系は一体どうなっているんだ! 外来種も野放しなのかよ! 博物館の館長、フクロウのフータは、スターデューバレーのギュンターそのものではないかと感じた。たぬ吉へ返済すべき住宅ローンは中途のまま放置されることとなった。
 四月も半ばを過ぎると、スーパーの店頭から無くなっていた各種食品類は適宜補充され、不足状態は解消された。マスクや消毒液などの衛生用品も、徐々にその姿を見かけるようになったが、体温計だけは品切れのままであった。

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 四月一日に首相が宣言した二枚の布マスクは、僕の所にはまだ届いていなかった。職場の人間の誰に聞いても、まだ届かないとのことだった。

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