天国の谷へ日光と芸術を求めて
ふと、チリのサンティアゴに来た。
どれくらい「ふと」この地に来たかというと、先月ヨーロッパの冬の寒さにうんざりし日本に一時帰国をしたものの、日本の冬も寒さを増してきた中、昼過ぎまで暖かいベッドでごろごろして、不意に予約完了メールが届き、そのメールで目が覚めたくらい、ふとした瞬間に決まった。
さらに言えば、アルゼンチンのブエノスアイレス行きを取ったが、せっかくだからトランジットのサンティアゴで二泊することを決めた感じだったと記憶している。そして、その二日後の今、僕はサンティアゴにいる。
目的地のブエノスアイレスに関しても、アルゼンチンの首都で正距方位図法で最も遠い箇所に書かれていた地名という程度の知識しか持ち合わせていなかった。その手前のトランジットの街サンティアゴに至っては、チリの首都で地中海性気候に属するという知識しかなかった。
さて事前知識なくアルゼンチンに行くことになったわけだが、準備し始めたのも用事が終わりアルコールが抜けた4時間前からだった。飛行機に乗り込むまでほとんど時間がなく、そこがどんな場所かも調べる時間もなかった。
しかしながら、結果としてその選択は正しかった。
そういえば、冬のヨーロッパから逃げてきたのだった。
チリ初日の時点で、寒空のヨーロッパにせっかくの年末年始に日本から何の用事もなく(仕事をする、友人と会う、サウナに入る、オーロラを見る以外の理由で)行くことが、どれだけの奇行あるいは苦行かとしみじみ思った。僕自身、冬のヨーロッパには5,6回行っているが、同時期のチリの良さを味わってしまうと、自分が行ってきた冬の目的なき渡欧は愚行だったと思った。他人に対しても行くこと自体は否定しないが、実際にベストシーズンを外すと、その地の良さの何百分の一しか味わえない。その時期に渡航している人がその時期だけでヨーロッパを評価してしまうことはもったいないと思ったし、多少高くても旅の満足度を向上させるのはやはりベストシーズンだと思った。ビーチで日光浴をしながらワインを飲んだほうが幾分も気楽なものだ。本も酒も思考も進むし何より良質な思い出は長期記憶に自然と残る。
時を戻そう。11月下旬、雲がちの冬のヨーロッパの旅を道半ばでやめて日本に帰国をした。理由はいくつかあるが代表的なのは①日照時間が少なく、霧のような天候が続く時の写真の難しさとテンションの上がらなさ、②時に氷点下にもなる寒さの中で活動することの物理的なきつさ、③保存食とポテトばかりの食の単調さに、ノイローゼになりそうになりながら(あくまでも比喩だが)逃げるようにして日本に帰ってきた。
サンティアゴはその点、冬のヨーロッパのダメな部分を全く持ち合わせておらず、むしろ僕が冬のヨーロッパの反面教師にしたいと思っていたものの逆のものが、見事にすべて揃っていた。
先ほどから若干触れているが、サンティアゴはケッペンの気候区分で地中海性(Cs)気候に属する。半年前、今年の夏にバルカン半島とギリシャを回っていた際に地中海性気候の良い部分をいやというほど味わった。
Cs気候という事は夏季はからっとしており降雨量が少なく(月間30mm未満)、実際に雲もなく毎日晴天が続く。また、Cs気候の地域の果物や野菜は大量の太陽を浴びて育ち、お日さまの味がすると言っても過言ではないくらい濃厚である。
実際に、チリに降り立った日の最高気温33度、最低気温18度。湿度ゼロ。地中海の特産品がオリーブとキュウリとトマトだとしたら、チリのそれはスイカとオレンジだ。どれも丸まるとして道端に並んでいた。
加えてチリは太平洋に面した海洋国家であり、抜群に海鮮が美味しい。サンティアゴの中心市場には太平洋沖で採れた海鮮の小売りとレストランが所狭しと並ぶ。ここでは生ウニとイカのカラマリのアヒージョを食べたが、白ワインとビールに絶妙に合い美味しかった。
さて、そろそろ天国の谷の話をしよう。
天国の谷へ日光と芸術を求めて
チリに到着をして2日目。サンティアゴでは丸一日自由な時間があったため、世界遺産の街バルパライソに日帰りで向かうことに決めた。
バルパライソはスペイン語で「天国の谷」という意味を持つ、サンティアゴから西に120km程度車を走らせた太平洋沿岸に位置する街である。
歴史的には1536年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)フアン・デ・サアベドラがこの地にたどり着き、彼のスペインの故郷の名前「バルパライソ・デ・アルバ村」にちなんで名づけてしまった乱暴な名付けられ方をされた地であった。当時はまだ栄えていなかったが1834年にはダーウィンを乗せたビーグル号も停泊し、その後はカリフォルニアのゴールドラッシュの物資供給点という事で交通の要衝になる。しかしながらそれも1914年のパナマ運河開港に伴い、通過にリスクのあるマゼラン海峡を通るルートを避ける船たちがこぞってパナマ運河を利用するようになり、衰退の一途をたどるようになった。とはいえ人口は約25万人おり、1990年には立法府がサンティアゴからバルパライソに移転もしている重要な都市であることは変わらない。
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閑話休題。基本的に、15~16世紀の新海路及び新大陸発見に伴う既存陸路の衰退、その後の鉄道や大陸内運河の開発に伴う既存交易路の衰退、大陸間の運河(スエズ・パナマ)開港に伴う海路の衰退は、どこの地域でも見られて大変に興味深いと個人的に思っている。
※歴史は繰り返す。次はどこでどのようなパラダイムシフト、あるいはゲームのルールチェンジが起こるだろう?
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バルパライソに着いた瞬間思ったのが、夏季にも拘らずひんやりした風が吹くということ。その質はサンティアゴと明確に異なる。気温を見ると、昼12時時点の気温16度。最高気温は16時過ぎで20度の予定。ここでまた地理の話に戻ってしまうのだが、南極海に端を発する寒流のフンボルト海流(ペルー海流)が海岸沖すぐのところを流れ、さらにそれは湧昇しているため海水がとても冷たい。冷たい海水を含んだ空気を偏西風が運んでくるため、ベストシーズンの12月でも最高気温20度程度となる、という理屈である。緯度は南緯33度と、南北逆にすると福岡と同緯度ではあるが、これほどまでに暖かくならないのは、まさに寒流のおかげなのである。
バルパライソの特徴は急斜面にある入り組んだカラフルな街並みである。市内には、斜面を重力のみによって登り降りするアセンソール(スペイン語でエレベーター)がある。それらを使って一日街歩きをしてきた。
バルパライソの街並み①
バルパライソの街並み②
階段にも絵が描かれている
凝ったアートの壁が並ぶ
傾斜50度を超えるアセンソール(昇降機)
ブッダ(僧侶?)もトランスしている
建物は綺麗とは言い難いが、色彩は美しい
ピアノの鍵盤を模した階段
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閑話休題2。チリ共和国の人々の顔ぶれを見ているとなかなか興味深い。話をヨーロッパ・ドイツ辺りから始めると違いが顕著にわかるので少し冗長になるがお付き合い願いたい。ドイツの都市を歩いて感じるのは、ゲルマン系の顔つきの人たちとトルコ移民の多さ。隣国フランスの都市を歩いて感じることは、ゲルマン系の顔つきに加えて、ラテン系の顔つきを持つ人も多くなり、一方でトルコ移民は減少して西アフリカ系の顔つき(頭が丸く鼻が横に大きい)をした黒人が多くなる。さらに隣国、スペインの都市を歩いて感じるのは見るからにラテン系の顔や体つきの人が多くなり、海を挟んで隣国のモロッコのアラブ系の顔つきともどこか似た印象の顔つきの人も多くなる。そして極めつけはポルトガル。基本はスペイン系の顔つきに似ているが、横には大西洋を挟んではいるからか、ブラジルを中心とした南米からの移民や旅行者が多く、そこはヨーロッパと言っても前述のドイツとは背丈や顔つきが全然違う。そしてチリ共和国。言わずと知れたスペインの植民地であるが、いわゆるラテン系ヨーロッパ人をルーツにする人、メスチソ、黒人が混ざり合っており、どこかポルトガルに似た人種の混じり具合の雰囲気を出していた。その肌の色や背丈は、目鼻立ちやスタイルではなく、あくまでも肌の色や背丈において、僕ら日本人に近しいものがあり、どこかリラックスして過ごせた気がする。
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一日の終わりにビールを飲みながら今日の出来事を振り返っているが、一人旅は何もしなくても考える機会が向こうからやってくる。あるいは訪れた場所が絶妙によかったのかもしれないが、少なくとも毎回旅してると出会う感情であることは間違い無いから、これは僕にとっても旅の醍醐味の一つかもしれない。