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ドゴン族の土地バンディアガラ

 いよいよガチ辺境である。西アフリカ観光のハイライト、マリ共和国中部のドゴン族の土地バンディアガラについて書く。

 大学時代に僕は、バンディアガラでフィールドワークをしていた。どの辺境よりも思い入れの深い地であるため、しっかり書き残しておきたいが、残念ながら今は旅先で、文章も写真も適切な形で残しておかなかったため多くの記録がない。おまけに具体的なやり取りが記憶からも消え始めている。
 実はこの危機感もあって、自分の記憶やその時の感情を記録として残すために、noteを始めた。

西アフリカ唯一の世界複合遺産

 世界には1,000を超える世界遺産が存在する。世界遺産には「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」の3つの分類がある。複合遺産は名前の通り、文化遺産と自然遺産のそれぞれの登録基準のうち少なくとも一項目の登録基準を満たすものであり、世界遺産の中でも30件台(2019年時点)と、非常に稀有な遺産が該当する。有名どころではペルーのマチュピチュ、トルコのギョレメ国立公園及びカッパドキアの岩石遺跡群・パムッカレ、ギリシャのメテオラ、オーストラリアのウルルなど。タイトルにあるマリ共和国のバンディアガラの断崖・ドゴン族の土地は1989年に世界複合遺産登録をされた世界的にも稀有な場所であり、西アフリカ唯一の世界複合遺産である。首都バマコから車で半日程度で訪れることができるが、旅人としては基本セネガル、ギニア、ブルキナファソから陸路で入って訪れるのが一般的(実際には一般的と言えるほど旅人はいないが)であり、バンディアガラを訪れる人はよほどの辺境好きの旅人か文化人類学徒であるといえよう。

地理的特徴

 バンディアガラの断崖は標高差が500m、幅は150kmにも及ぶ。その地に約25万人のドゴン族が700程度の村を作って暮らしを営む。ドゴン族は、断崖の中に、比喩ではなく本当に崖に張り付くように、あるいは断崖の裾野に定住をしている。

村の入り口のバオバブの木

崖の中の集落

崖の下の集落。三角屋根は貯蔵庫


崖の間の旧集落。1㎥程度の集落にどうやって人が入っていたのかは謎だが、ドゴンの人によると昔はここでピグミーが住んでいたとのこと(いまはピグミーはコンゴ民主共和国とウガンダ南部に住む)。断崖の下には猛獣がいるため、崖に張り付くように住むようになったとのこと

各家と貯蔵庫がセットで並ぶ

バンディアガラの断崖を流れる滝

崖下の集落。右上のような切れ目に道があり、崖を上り下りする

 マンサ・ムーサのメッカ巡礼で有名な、14世紀に最盛期を迎えたマリ帝国時代のサハラ交易路はニジェール川北部のシンゲッティや南部のジェンネが有名である(その後15世紀末~16世紀にかけて大航海時代に突入し、サハラ交易路は緩やかに衰退していった)。
 バンディアガラの断崖の麓町モプティは上述の2つの都市のルート上にあったが、バンディアガラの断崖自体は交易路から50kmほど東に位置していており、ドゴン族はその断崖に身をひそめることで、当時のマリ帝国が広めていたイスラーム化の波にのまれることなく、その後も含めて独自の神話体系と伝統を保持してきた。 地理的特徴があったからこそ独自の文化を保つことができた。

参考:ジェンネの泥の大モスク。この日は断食明けでカラフルなサテン地の衣装が街に溢れる

参考:泥の大モスクでの集団礼拝

文化的特徴

 現代に残る文化的特徴で代表的なものを三つ挙げる。
 一つ目はコーラ・ナッツ文化。コーラ・ナッツとはコカ・コーラの名前にも入っているコーラであり(現在は原材料に含まれていないが)コーラ・ナッツはカフェインが含まれるため興奮剤として取引をされる嗜好品である。西アフリカ沿岸部の熱帯雨林で育つが、昔から嗜好品としてサハラ砂漠の交易で重宝されてきた品であり、現代においてもドゴン族の村を訪れる際にはコーラ・ナッツを献上する文化が残る。実際に僕はドゴン族の村を40ほど訪れたが、まずはマリ共和国の首都バマコのマルシェでコーラナッツを入手してからドゴン族の各村に訪れなければ、村に入れてもらえないほど、その実は重要な役割を持っていた。
 二つ目は仮面をつけた祭りの文化。死者の魂を弔う祭りには、さまざまな種類の祭りがある。その中でも、ドゴン族の神話に基づいて現世の創始者の祖霊をまつるのが、60年に一度行われる「シギ」と呼ばれる祭りである。前回は1967年に行われ、次回は2027年に行われる。僕はもちろん見たことがない。特筆すべきはマリ共和国の平均寿命は2015年時点で58歳と、60歳に満たない。もちろん過去の平均寿命はもっと短い。その状況下で、60年に一度の祭りを無形文化として伝承していることが、驚異的なことであると僕は思っている。
 三つめは独自のカレンダー。彼らの一週間は七日ではなく五日周期で訪れる。そして村の中心の広場では、五日に一度、市場が立つ。それはすべての村において特定の曜日において行われるのではなく、各村において開催日が決まっている。行商人は市場の開催日に合わせて各村を転々とする生活を送る。僕はナイジェリア出身の子供服の行商人たちと一緒に、マリのドゴン族の各村の端にあるナイジェリア人コミュニティに入り込み、朝起きては乗合バスで市場に向かい、陽が沈んでは各村の家の庭で、蚊帳とマットレスを借りては満点の星空を眺める生活を何度か送った。一番長い時で4ヶ月ほど行動を共にした。


マリ共和国を取り巻く現状

 ドゴン族の土地・バンディアガラの断崖はかつて観光地化された民族になってしまうと懸念もされたが、ここ10年ほどは、マリ共和国の情勢がそれどころではなく、観光客はほとんどいない。また10年前の僕の訪問時ですら、全然観光地化の様相を呈しておらず、観光客は週に1組訪れる程度であった。2010年にマリにいたころには、JICAのセネガル拠点の方々を中心に、JICAのマリ拠点を立ち上げたが、わずか3週間で治安の問題で撤退することとなった。2010年の9月に非常事態宣言が出されたと記憶をしているが、そこからすぐに荷物をまとめ、10月にはマリ在住の日本人駐在員らとともに、フランスへ逃げるように飛んだ記憶がある。その後情勢は悪化の一途をたどる。
 マリ共和国では直近10年間、断続的に色んなイシューが出てくる。すぐに思い浮かぶだけで、2000年代を通じた北部トンブクトゥで活動をする青の民族・トゥアレグ族の過激化、2010年以降のイスラム過激派組織の台頭、2014年の西アフリカエボラ出血熱大流行、2015年のバマコでのホテルのテロとそれ以降の非常事態宣言発動、そして2019年フラニ族とドゴン族、互いの村の襲撃及び100人を超える規模での殺害等々、課題は枚挙にいとまがない。
 大体において、表出した課題はシンプルであったとしても、その根本は複雑に絡み合っていることのほうが多く、シンプルな解決方法など存在しない。一つの課題を解決する際には別の課題と衝突し、あるいはせっかく特定の課題が解決できたとしてもまた別の新しい課題が生まれてくる。課題は常に複数存在するだけではなく、それが相互に影響しあって、重層的に存在してしまっている。これはマリ共和国に限らずアフリカ大陸全般に言えることだが、希望に満ち溢れた1960年の独立の年(マリもこの年に独立)から、希望が一転絶望に代わり、いまだ抜け出せていない国が多い。どこかでアフリカという大地の包括的な歴史を過去から現代まで整理しようと思っているので、今回は詳細を割愛する。

 2027年のシギの祭りまでには、なんとか情勢が今よりも少しでも回復して安定していることを祈っている。辺境の果ての美しい大地に、まだ見ぬ壮大なシギのダンスを見に、友達を連れて訪れたい。

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辺境
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