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等々力に咲く金木犀、中村憲剛。

私中村憲剛は、今シーズン限りで川崎フロンターレを引退します

川崎フロンターレ  背番号14  中村憲剛

彼が、今シーズン限りでの現役引退を発表した。 来シーズンから憲剛のプレーが見れなくなる。突如として突きつけられた現実。18年間も見てきたのに。すごく好きなプレーなのに。

ケンゴのプレーを見ている時だけは29歳になった今でも、11歳の頃と変わらずに 、流れ星を見つけた少年のように目を輝かせて、14番を追い続けていた。

「あなたのプレーは絶対忘れない」

僕はこの言葉を嘘だと思う。記憶は曖昧なもので完璧には覚えていられない。

金木犀の匂いと同じように。

きっとどれだけ好きなものでも、どれだけ見続けてきたものでも、次第に記憶が薄れて、どんなプレーをしていたかも思い出せなくなっていくのだろうと思う。

実際にスタジアムで見た時の興奮。ボールをもらう姿勢、見ている位置、左右の足から放たれるパスの強弱の質、そして煽り。アップでは自陣ペナルティエリアに近い位置をランニングしている定位置があって ハーフタイムの時は常に走って戻る姿。

「そうだ、このプレーがみたかった。これが中村憲剛なんだ。」

記憶が完璧でないからこそ、この感動と驚きを毎回噛み締めることができる。そのために僕は雨の日も雪の日も、必死に稼いだお金を使って全国のスタジアムに足を運び応援をしに行くんだ。

来シーズンからはその姿が見れなくなる。そして、言葉で具現化できないほどの美しく泥臭いプレーを次第に忘れていく。 

例えそうであろうとも、きっとこの先ずっと語り継いでいくだろう。自分の子供や新しく知り合う人に。

「川崎フロンターレにはさ。中村憲剛っていう、言葉では言い表せないほど、最高の選手がいたんだ。」

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長い長い、時を経て

大学卒業後、2003年に川崎フロンターレに入団。 それ以降チーム一筋18年の時を川崎フロンターレで過ごした。

いつからだろう。

どこのチームが好きなの?と聞かれたときに、「川崎フロンターレが好き」と言っても恥ずかしくなくなったのは。

いつからだろう。

「あの人知っているよ。中村憲剛選手!」と認知してもらえるようになったのは。

ここまでくるのに何年かかっただろう。一瞬だったようで、とてつもない長い道のりだった。月日でいえば、ケンゴが入団して以降に僕は

小学校を卒業し、中学校を卒業し、高校を卒業し、大学を卒業し 、社会人7年目になる。そこには常に中村憲剛がいたんだ。信じられないくらいずっとプレーを追いかけ続けてきた。

その記憶と心を少しでも書き留めておきたい。

中村憲剛と僕の小さく長い物語を。

はじめまして、中村憲剛選手

未だに覚えている、中村憲剛がJリーグデビューをしたピッチをスタジアムで見た瞬間。正直に言う。当時小学生だった僕が抱いた印象。

「あぁ、前からプレッシャーをかけて追いかけまわす前線の選手なんだな」

上背があるわけでもない、フィジカルが強いわけでもない。今のような情報社会ではないからどんな選手かも分からない。

J2の川崎フロンターレ。数年前にはJ1の壁を知り降格。2001-2002シーズンは苦しい時期を過ごした。そこに入ってきた大卒ルーキーは、「J2(川崎フロンターレ)がお似合いの選手」だった。

小学生の僕にとって、その頃のヒーローは専ら我那覇和樹選手だった。FWとして1999年に入団し、2000年にはJリーグアウォーズで新人賞候補としてフロンターレでは唯一の選出。ナビスコカップ準優勝の立役者でもあったし、何より点を取るかっこよさがあった。

ケンゴが入団した2003年には石崎監督のもと、ジュニーニョやアウグストの活躍もあって躍進。最後は首位のサンフレッチェ広島を倒すも、勝ち点1差で昇格を逃した。

あの時のスタジアムの空気は子供ながらに表現できないものだった。晴天の青空の下、乾く冷たい空気が肌にひしひしと当たると同時に突き詰められた現実。

ただ、この1年から全てのフロンターレの歴史が大きく変わっていった。川崎のバンディエラと共に。

想像を超えて歩んできた階段

夢にも思わなかった。

川崎フロンターレが優勝争いを繰り返すなんて。

夢にも思わなかった。

等々力のスタジアムが常時満員になるなんて。

夢にも思わなかった。

川崎フロンターレから日本代表が選出されるなんて。

夢にも思わなかった。

川崎の街がここまでフロンターレ色に染まるなんて。

夢にも思わなかった。

一人の選手が、こんなに日本中から愛されるなんて。

夢にも思わなかった。

引退セレモニーで、こんなに涙が出るんだなんて。

この20年間、川崎フロンターレは一気に階段を駆け上ってきた。 その間に準優勝が8回。そのすべてを現地で経験をした。 準優勝を重ねるにつれて重くのしかかる。

「タイトルって、どれほどまでに遠いんだろう」

映し出されるケンゴの悔しい顔。シルバーコレクターと揶揄された。さらには、授賞式で悔しさからメダルを首からすぐに外す選手の姿が批判の的に。 好きなチームや選手が社会から大々的に叩かれることが初めてだった。それに対して何もできない己の無力さと恐怖、周囲の友達からも批判される悔しさ。

ただ、今でも鮮明に覚えている。その次の試合で選手バスを迎えるときに歌って出迎えたよね。鉄のハート。

”どんな時も 俺たちそうさ 心くじけない。青と黒の 誇り胸に。さぁ、行こうぜ。KAWASAKI いつも俺たちと共に。ぶちかませよ Just going now.”

この時、このチームは強くなるって確信した。最高の青援が、ケンゴにも聞こえていたのだろうか。

そんな批判も乗り越えて、川崎フロンターレは成長を繰り返した。 ただ、本人も言うように僕も心の中で少し感じていた。

ケンゴがいる間に優勝はできるのだろうか

そう感じざるを得なかったのは相馬監督になったとき。常に第二の中村憲剛を模索していたチームにとって、大島僚太の台頭。世代交代も見えてきたかな、なんて僕も思っていた。

でも、本当の中村憲剛はここからだった。

風間監督に代わってから、サッカー選手はさらに、これほどまでに、うまくなるんだって驚かされた。 特にベテランの域に入っていたケンゴ。 僕は当時すごすぎてプレーを見る度に笑ってしまった記憶がある。

「この人、どこまでうまくなるんだろう?」

そしてその疑問の答えがわかることなく、ケンゴは現役生活に幕を閉じる。 20年以上Jリーグを見てきて、他チームを含めてこの驚きを与えてくれる選手は、きっと後にも先にもたった一人だけだろうな。

ケンゴと共に成し遂げたタイトルの数々。それはもう嬉しくてたまらない瞬間ばかりだった。

でも、本当はタイトルよりも大切なものが近くにあったんだ。

中村憲剛のプレーを間近でみれる喜び。どんなタイトルを獲ることよりも、価値があり幸せなものだった。

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川崎フロンターレで誰が一番好きなの?

僕はいつしか勝手にフロンターレと距離を置いていた。それは心の距離というより、選手誰か特定の人を「好きになる」ということ。チームを応援し始めてから選手は全員変わって華が開いた選手も、開かなかった選手もたくさん見てきた。

その中で、だれか特定の選手を好きになって応援することはなぜか許されないような気がしていた。

そう、僕はこの”チーム”が好きなんだ。

たとえ誰がいなくなっても、誰が来たとしても J2に落ちようが優勝できない弱小に戻ろうが、いつまでも公平に応援し続けることが義務だと。

だから、ユニホームは毎回サポーター番号の12番。

僕の家には「14番」が圧着されたユニホームはない。

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憲剛が引退を発表したときに、僕は自分がこれまで嘘を言い続けたことに気付かされた。心にぽっかり穴が開いた、埋められない想い。今までどの選手が移籍しても、引退したとしても抱かなかった感情が揺さぶった。

そうか、僕の心はここまで中村憲剛に魅了され、虜になり、心の底から大好きだったんだ。

物凄く長い時間を通して共に川崎フロンターレの歴史を歩んできたこと。 本当に嬉しいし、大きな財産だ。

無名であるチームだからこそ、ひたすら貪欲に、地道にチームや選手で作り上げてきた歴史があった。その中心には常に中村憲剛がいた。

サポーターが満員にならないスタジアム。フロンターレ文化が地域に根付いてない川崎。

そんな一つ一つを変えようと努力してきた中で、チーム最年長となってもMVPを獲得しても、慢心せず常にチームのために率先して動いて回るその姿勢が今のフロンターレを作り出したなと、感じることがたくさんある。それこそが中村憲剛が生きてきた証だ。

昔はね。

”Jリーグ、中村”っていうと、周りの皆は絶対言ってた。

「あ、中村俊輔?それなら知ってるよ。」

代表でも中村憲剛と中村俊輔が並んでいると、なんとなく。申し訳ない気持ちがあった。中村って名前が二人いてややこしいとか思われないかな、なんて。

でも、それが徐々に変わっていった。 

“中村憲剛”を知る人が増えて、川崎フロンターレを知る人が増えて。これまでの歴史を知っているからこそ、とてつもなく今が嬉しい。

人生における川崎フロンターレ

川崎フロンターレの歴史を語るにおいて、外せないコンビがある。

中村憲剛&ジュニ―ニョ/中村憲剛&我那覇和樹/中村憲剛&谷口博之 /中村憲剛&大久保嘉人/中村憲剛&小林悠/中村憲剛&大島僚太

そう、僕が追いかけ続けてきた川崎フロンターレにはいくつもの好きなコンビがあり、そのいずれにもケンゴがいたんだ。

「今の自分がいるのはみんなのおかげ」

なんてケンゴは言うよね。でも、その言葉はそのまま返したいんだ。

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11歳の東京の田舎に住むたった1人の子供に、あなたは川崎フロンターレの魅力を植え付けて夢を与えた。

その少年は大人になってもその魅力に取りつかれ、就職先も「フロンターレが好きだから」っていう理由でスポンサー企業に入社した。今も変わらず、情熱を持ってフロンターレを応援し続けている。

そして同時に、「川崎フロンターレ」という存在が、僕のことを生かしてくれていると思うことがある。

周りで誰も知らなかった川崎フロンターレという存在が、強くなって知名度が高くなった。

幼馴染から会社の上司までが川崎フロンターレというフィルターを通して、繋がりを紡いでくれている。まるで生きてきた道しるべを照らしてくれる太陽のように、僕という存在に光を当ててくれる。それが川崎フロンターレだ。

こうして僕がいられるのも、ケンゴが必死もがき苦しんで作り上げた川崎フロンターレがあるからなんだ。

等々力に咲く金木犀、中村憲剛。

秋になれば香る金木犀。日本国民から愛される金木犀の花言葉は、まさにケンゴの人間性を象徴しているかのようだ。

金木犀の花言葉は「謙虚」。その甘くすばらしい香りに反して、控えめな小さい花をつけていることに由来している。

Jリーグ史上、最も美しく惜しまれる引退。等々力に咲いた金木犀は、一生枯れることなく僕らサポーターの中で咲き続けることだろう。

ケンゴ、僕はあなたと歩んでこれて本当に楽しかった。

引退おめでとう、そしてありがとう。本当に、ありがとう。


僕はこの先

誰の背中を追いかけて、ピッチを眺めればいいのかな。


#OneFourKengo  

#ケンゴありがとう

#frontale  

#中村憲剛

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