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震災からの復興の兆しアクアイグニス仙台奮闘記

2011年3月11日。東日本大震災。宮城県東部沿岸部は、この震災で大きな被害を受けました。
アクアイグニス仙台は、人が住めないと指定された復興利活用区域に2022年4月21日にオープンした温泉複合施設です。

この日、東部沿岸部藤塚地区の堤防の築堤工事を行なっていたのは、創業から100年を迎えようとしている地元の建設会社深松組。現場の作業員は、大きな揺れがあってからすぐに車に飛び乗ると、ラジオから

「津波が来る!!」

その言葉は作業員の心臓を跳ね上げ、すぐさま「津波が来るぞー、早く逃げろ!!!」
道に佇む人々に必死に声をかけながら、その場から慌てて離れて行きました。

「津波なんて来るわけがない。」
 
そう言って、その場を離れない人が多くいたのにも理由もあって、ちょうど2日前にも大きな前震がありました。津波が来ると予測されていたのに、実際には来なかった。だから、大丈夫だと思った。
 
実際には10メートルにも及ぶ大津波で、多くの方々が犠牲となってしまいました。

沿岸部の藤塚地区は、海沿いの防風雪から守るため、イグネという家の周りを囲む屋敷林が植えられた緑豊かな地域です。その風景も一瞬にして海に飲み込まれてしまいました。

奇しくも瓦礫と化した藤塚地区を復興させるための陣頭指揮をとることになったのは、その日堤防の工事をしていた深松組の深松努社長でした。作業員たちも被災者でありながら、道を開き、瓦礫や泥に埋まる土地に入り、行方不明者の救出にあたる日々が始まったそうです。
震災から3日経った時、深松社長の元に関西で建設会社を営む旧知の友人立花社長から連絡があり、何か手助けできることはないかと申し出があったといいます。

福島の原発被害の状況も報じられて、また余震が来ないとも限らない。
 深松社長は少し落ち着いてからの方が良いからと伝えたそうですが、立花社長は3台のトラックを連ねて炊き出しに来てくれたそうです。食べ物が充分に行き渡らない中で駆けつけてくれた時のことを振り返ると、まさに命の恩人であると話します。
 
東日本大震災から1年を過ぎた頃、立花社長は三重県鈴鹿山脈の麓にアクアイグニス菰野(こもの)をオープンさせました。
施設に赴いた深松社長は、人里離れた風光明媚な場所にできた素晴らしい施設に感動を覚えました。
そして、周年記念ごとに菰野の施設を訪れるたびに、藤塚の地にもアクアイグニスのような施設があったらいいのにと思うようになり、いつの日かそれが悲願ともなっていました。

2022年4月21日、様々な偶然やタイミングが重なり、深松社長は夢を実現させることになります。宮城県東部沿岸部藤塚の地にアクアイグニス仙台がグランドオープンしました。


2022年4月21日アクアイグニス仙台オープンの日

深松社長の
「よろしく頼む」
その一言を受けて、私は人生が大きく変わる決断をしました。

私は、39年ナレーターや司会の仕事を続けています。今から10年ほど前から、人材の育成のオファーを受けて仕事も任されるようになり、もともと起業にも興味があって57歳という年齢で会社の経営を始めました。

実は、深松組の社長深松努くんと私は、宮城県仙台市にある中学の同級生。
中学2年の時、私は、盛岡から仙台へ父の転勤で引っ越してきました。

その日は忘れもしない、1978年6月12日宮城県沖地震の日。
荷物をトラックに乗せ、同級生に別れを告げて仙台に向かう高速道路の入り口で大きな揺れを感じ、目の前の道路が大きくうねり、歪み、踊っている様子が今でも忘れられずに心に残っています。

あれから45年

深松が東日本大震災の復興に向けてどれほど心を傾けてきたか見てきました。そして、この出来事は他人事ではなく、いつ自分の身に起きるかわからない。自分を守るための防災の意識と知識を持つことが大切だと聴いてきました。防災に関して講演の依頼があったら断らないようにしている。伝えることが自分の役割だから。そうして復興に心を掛け続ける彼の仕事ぶりを見てきました。

「アクアイグニス仙台がいよいよオープンする。人の育成を頼む」親友からの信頼の言葉を受けて、経験のない新規事業「アクアイグニス仙台」の立ち上げにおいて、人の育成という大きなミッションを持って、この役割をお引き受けすることに決めました。

何も言わずに協力をしてくれるわたしの家族にも感謝し、記録に残さないともったいないほど熱くハードな日々。ついに、還暦を前にした私の奮闘記が始まってしまいました。

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