楮(こうぞ)の生産地から、消えゆく知恵と文化
移住してすぐ、大手の楮農家さんに栽培の研修を受け入れてもらえることになりました。朝から夕方まで畑仕事に行ってしまうと、研修先のご夫婦以外に他の人とのつながりが全くないことに気づきました。そこで月1回、紙面でこうぞの研修便りを作って日々の活動の報告がてら、楮の関係者を1件1件訪ねてお便りを配ることにしたのです。この地域の楮のことをもっと知りたかった私、ちょっとした立ち話でもできないかと考えた末の苦肉の策です。相手も農家さんなのでお留守のことも多いですが、運良くお会いできた時にいろんなことを教わることができました。今回はそんな立ち話で聞いた楮の生産地の知恵と文化についてお話したいと思います。
消えゆく楮の記憶
那須楮(なすこうぞ)とは、八溝地方南部の栃木県と茨城県の県境を挟んで東西に広がるの中山間地域一帯で収穫される楮です。この中でもとりわけ品質の良いとされる楮を大量に産出していたのは、旧上小川村(現大子町:頃藤・大沢・栃原)と旧下小川村(現大子町:西金・盛金・北富田と現常陸大宮市:盛金・久隆・家和楽)周辺です。昔から楮の栽培が盛んなこの地域は、今もなお当時の趣を残しています。大子町の中心部から十数キロメートル南に位置するこの地域で、私は昔から続く伝統的な楮の栽培・加工を学んでいます。
町の方に楮のことを話すと、同じ町内や生産地の域内の方でも知らない方が多いのに驚きました。朧げな記憶があるのは50歳以上の方で、楮の姿形を見たことない人もたくさんいらっしゃいます。そもそもBtoBのビジネスで、原料はほぼ全てが県外の紙漉き産地へ出荷されます。いくら産地であっても、植物として育っている姿も、加工して白皮となった姿も目に触れる機会がほとんどなく、全く接点がないのですから、高品質な楮の大半を大子町から出荷していて、これらが日本の伝統文化を支えていることを知らないのも当然だと思います。
しかし、町で八十歳を超えるご高齢の方とお話しすると、楮にまつわる思い出を生き生きと語ってくださいます。その方々が主に楮に関わっていたのは戦後間もなくの頃だと思います。当時は、まだ町内のあちこちで楮が栽培され、多くの方が農閑期の仕事として楮に関わった経験があったようです。
効率よく時間・空間を利用する知恵
この辺りは山がちで、稲作に適しませんでした。そのため河岸段丘が作る水はけの良い傾斜地を利用して、お茶・麦・蒟蒻(こんにゃく)・楮・漆などの栽培と林業(杉)を組み合わせていました。お茶や楮は、斜面の土留めとしても機能します。
またこの地域には、自然場(じねんじょう)という蒟蒻の栽培方法があります。楮は成長するにつれ、他の植物を被圧して日陰を作ります。その下に耐陰性の高い蒟蒻を階層的に育てることで、希少な農地を有効的に利用していたのです。自然場は土地利用の観点だけでなく更に利点があります。蒟蒻は出荷までに3年の年月を要します。通常は冬季に蒟蒻芋を掘り出し保存しておき、春になると再び植えて芋を成長させます。重量のある蒟蒻芋の掘り起こしや運び出しは重労働です。自然場は南向きの暖かい斜面で、真冬でも土中は凍結することがありません。蒟蒻芋を植えたまま冬の間保存することで、種芋の掘り起しや植え替えの工程を省くことができました。複数の作物を並行して育て、時期をずらして出荷することは、価格変動や気候等による不作のリスクを分散することでもあります。不利な条件の土地だからこそ、時間も空間も上手に活用するこれらの知恵には、本当に感銘を受けます。
助け合いとつながりで成立していた山村
当時の農家は家族経営でした。しかし繁忙期になると、「結取り(ゆいとり)」といって、隣近所の3〜4件の家でお互い助け合いながら、今日はAさんの家の作業、明日はBさんの家の作業、というように労働力を結束させ、各家交代で分担しあったのです。
楮は、蒸して皮むきする工程に人手が要り、結取りでまかなっていました。楮蒸しは、旧正月前の寒い時期。量が多い時代は、夜中に竃に火を入れ、未明から2時間ごとに蒸しては剥いてをくりかえし、次の日の夕方まで作業を続けたといいます。夜通しの作業を「よわり」と言うそうです。みんなでお喋りしながら手を動かし、その収入で豊かなお正月が迎えられるのです。「背中に子供をおぶりながらも結取りに出かけたよ。」「ばあちゃんの作った"ほど焼き※"をおやつに食べるのが美味しかったんだよ。」と当時の様子をあるお婆ちゃんが話してくださいました。大変な作業でしたが、どなたの口からも大変さの裏側に、結取りの賑わいや、お正月前の高揚感、みんなで夜なべして作業する一体感のような雰囲気も伝わってきました。結取りはご近所同志の信頼や結びつきも強めたことでしょう。
当時の結取りとは異なりますが、私も楮剥きの作業を一緒にやらせていただいた時、四方山話をしながら手を動かしたり、楮が蒸し上がるまでお茶をいただきながら待っているその雰囲気が好きになりました。楮蒸しの場面は、今でもニュースで冬の農村の風物詩として取り上げられることがあり、目したことがある方もいるかもしれません。しかし映像からは、大事なエッセンスが抜け落ちてしまっていると感じるのです。結取りで過ごした時間や空間にこそ、無くしてはならない農村文化があるのだと強く感じています。
そして高度成長期を境に、楮生産は衰退します。木材の価格も低迷、そして蒟蒻やお茶も機械化や大量生産に押され競争力で敵わなくなります。そして組合せで成立していた中山間産地の農家の生業の歯車がひとつ、またひとつ、と崩れ、やがて、町外の企業で仕事をしなければ生活が成立しなくなってしまったのです。この頃、結取りの仕組みが消滅したと言われています。
楮生産・加工の今、その先
現在地域の楮は、わずかな高齢の方によって支えられていますが、それも限界が見えています。このままでは消えゆくのも時間の問題です。私は町内外の多くの人にこのことを知ってもらうと同時に、一緒に結取りの雰囲気を体感しながら、栽培や加工に加わっていただいたり、暮らしの中で使えるような身近な存在として、多様な人が楮に関わることができる場ができればよいと考えています。そして地域の楮が町の多くの人に愛される存在になってほしいと思っています。