清家くん
「時に思いもよらぬ方向から声が届くことだってある。」偶然とはそういうものである。そんな偶然を記すために、久方ぶりに埃を被ったnoteを開いた。以下、内容である。
コロナ禍という禍々しき渦に巻き込まれて早一年。以前のようなマスクなしで居酒屋で終電まで呑んでいた日々がもはやアブノーマルだとさえ思ってしまうくらいには時は経った。
暮らし方、働き方、強いては生き方が変われど、どうしても好きなものというのは変わらないものである。
前置きが長くなった。私はサウナが好きだ。どれだけ身の回りの環境が変われど、定期的にサウナに行くという習慣は欠かさない。
先日、大阪から東京へ遊びにきた旧友の清家(せいけ)とサウナに行った。渋谷という人が密集して蒸し風呂と化した街からタクシーでワンメーター行ったところに、古めかしきサウナ付きの銭湯がある。そこは100年以上続いていてリノベーションが加えられ洗練されたデザインが施された場所だ。
私たちは日々のストレスと運動不足からなる毒素を排出すべく、銭湯にはいるやサウナに向かった。
彼は8分入る。そして僕も8分入ると宣言した。この宣言は、男と男のプライドをかけた決して破ることのできない固い約束だ。
私は4分で出た。熱すぎる。全身の肌が燃え上がるほど熱を浴びて身体が悲鳴を上げた。すぐさま水風呂へ飛び込んだ。しかしその水風呂は、身体の熱を冷ますどころか芯まで凍てつくくらいに冷たかった。学習機能をどこかへ置いてきたのだろうか私は冷えた身体を温めるために再びサウナへ向かった。
サウナに入ると。清家はまだ鎮座していた。彼は掲げた時間と戦っていた。いやそう思う時点で私の思考は浅いのかもしれない。彼はきっと自分自身と静かに戦っているのだろう。温度差に狼狽した私だが、F1レースでピットインに入り体制を整えた車体のように、8分のサウナ耐久レースにするりと復帰した。冷えた分だけ酷い熱さがましに感じられた。
数分後、清家がとうとう立ち上がった。彼は勝利に勝ったのだ。静かに自分と戦い、何事もなく勝利を手にする。彼の勝ちざまには敬服せざるをえなかった。その後私も”8分”耐久レースを周回遅れで終わらせた。
サウナのドアを開けるともう視界がぼやけている。血液がめまぐるしく体内を周回していることを脈動が知らせてくれる。ふと私は清家が気になった。なぜなら見渡しても彼がいなかったからだ。彼は常人では耐えられない時間あのサウナの中にいた。静かにどこかで倒れているんじゃないか。そんな不安が私を襲った。
おそるおそる辺りを歩いて回る。みな、小さなイスに座ってシャワーで汗を流している。今も昔もコロナになってもかわらないいつもの銭湯の光景だ。その光景の中に1人、イスに座って苦しそうにうずくまる男がいた。オーギュスト•ロダンが製作した「考える人」よりもさらに頭がへその方に向かって湾曲している。サウナに強い男は「ダビデ像」であるべきだという論説へのアンチテーゼを目の当たりにした。あろうことかどこからどう見てもそれは、清家だった。何度も確かめた。顔は隠れてわからないがそれ以外の、背丈や髪の特徴どれも清家のそれらと違わなかった。
これは緊急事態だと、脳内アラートが警鐘を鳴らした。と同時になんて声をかけるべきかを疲弊した脳で考えた。いやもう考える余地なく、「おい、おまえ生きてるか??」と耳元で彼の脳の深部に向けて声を届けた。
数秒の時間が経った後、彼は顔を上げた。意識があることを知り、安堵に包まれた。しかしその瞬間、想像だにしていなかった現実に直面する。
彼は清家ではなかったのだ。ただ彼に似た若者だった。僕は見ず知らずの他人に、「おい、おまえ生きてるか?」と尋ねたのだ。
時に声は思いもよらぬ方向から届くのだ。誰も知らないやつから「おい、生きているか?」と声をかけられた彼はどう思うだろうか。それは、三途の川を渡りかけている時にこっち岸へ引き戻す一声だったかもしれない。もしくは、自分らしい人生を送れていない自分に、自分の人生を生きているかという啓蒙を与えた一声だったかもしれない、その声は、夢の中のある人から発せられた声だと思いたい。
発したのは私だ。裸同士の彼と僕の間に残酷な現実が立ちはだかる。私は、緊急回避策Aを実行した。
緊急回避策Aとは、「すみません、間違えて話しかけてしまいました。」というセリフを腹の底から言うことである。
そしてすぐに私はその場からのエスケープを実行し、清家を探した。
すると彼は銭湯の1番奥で座っていた。驚いたことに彼は笑っていた。彼は私がサウナを出てから知らない人に声をかけることの顛末を全て見ていたのである。なぜ途中で止めなかったのか、その答えは清家という人間性の中に宿る。