めちゃくちゃ難しい時代を生きている気がする。
YouTubeを開けばおすすめ動画で溢れ、なんとなく押して結局数分見ちゃう。そこまで見たくなかったのに。それで気づけば1時間経っていて、たまに2時間弱とか。うそやん、また時間溶かした...と言いつつ次の動画。
Spotifyで自分の好きなアーティストを聴いていたはずが、いつの間にか似ている曲が流れる。アルゴリズムが選んだ曲は悔しいけれどめちゃくちゃ私好みで、ホイホイお気に入りに登録。
私の好きを集めたプレイリストは、既にどうやって好きになったのか、きっかけも覚えていない曲でいっぱいである。
小さい頃、アンパンマンが大好きだった。母とレンタルビデオ屋に行き、今日はこれ明日はこれ、と借りたものだった。
15歳の誕生日プレゼントは赤いウォークマン。高校からの帰り道、家を通り過ぎ、その倍の距離を自転車で爆走してTSUTAYAまで。
その繰り返しで私のウォークマンには沢山のアルバムが入っていた。
スピッツもgo!go!vanillasも在日ファンクも山下達郎も何もかも、毎回1000円分のCDを借りて返して借りてギリギリで返せて、毎日聴きまくっていた。
いつの間にか、家から出なくても音楽はそばに置けるようになった。
別に音楽の話に限らない。なんでもできるようになっている。新聞も家の前のポストまで取りに行かなくてもスマホで読める。ていうかそれよりTwitterの方が速いし。それになんでも頼めば家に届く。香水もお花もサブスクで毎月届けてくれるらしい。
「毎月お届け」系サブスクで私が個人的に面白いと思うのは、数多くあるものから一旦選んでみる、という「選択」をしなくてもレコメンドからお気に入りを見つけられるところ。
もう、自分で「選ぶ」ことをしなくても人生をお気に入りで満たすことができるようになっている。
わたしたちは自分で考えて行動することを最低限にしようとする社会を生きている。
私だって、大好きな音楽すらライブ以外で外に行くことはなくなった。
今じゃ色々当たり前。私はそれがなんだか寂しく、あまりにも聴き手として、生活者として、存在感がない気がする。
もちろん、わたしはその時々使っているそれぞれのサービスに集まるデータの一部となり、みんな管理されお金で取り引きされる情報である。たしかに昔より個人の輪郭ははっきりしている。でもそれは、いちデータとして。
これってなんだろう。
この、ただ享受しているだけ、何者でもない感じはなんだろう。
わたしはこれに対して「主体的な日常」を位置付ける。
主体的な日常とは、自分の手や頭を使って時間を過ごすこととする。
生活から手間が省かれ、有名YouTuberの動画は誰かに切り抜かれて文字起こし。手厚いフォローがされている。
逆にクリエイター視点で言えば、最近のカロリーメイトのCMでサカナクションの山口一郎は「満腹は敵」だと言った。
「主体的な日常」にとって、満足は毒なのだ。
(もちろん私と同じように時間を溶かすことも全然あると思うし、主体的な日常がずっと続くと体力が持たないとも思う。)
でも、その毒に侵されていることに気付かない消費者は、物凄い手厚いフォローを受けているのはたしか。
それで余った時間を何に使っているんだろう。
私はというと、ダラダラ、ダラダラと時間を溶かしているだけ。
ねぇ、どうするの。暇を持て余した大学4年の私ですよ。どうするのよ。やればいいんだけど、逆に別にやらなくったていいんだけど、この時間の埋め方好きですか。
「別にいいけどなんだかなぁ」の毎日が日々を作り、想像している素敵な未来を侵食しているのよ。解決策もくそもないです。だって今悩んでいるんだから。
最後に次のnoteか卒論に繋がりそうな話、環境に言い訳をさせて。
スマホの中には既に「スゴイ人」でいっぱい。でもそこに挑戦しなくても全然問題なし。だって代わりにやってくれるビジネスがいっぱいある。仕事の退職だって代行サービスがあるらしい。
自分の仕事を辞めるのも誰かにやってもらえる時代、自分が何かを生む出すハードルが高くなっていると思う。
絵を描く、文章を書く、デザインを始めてみる、音楽を作ってみる。
どれも衝動的に始められるはずなのに、スゴイ人に囲まれているわたしは、多分「これになりたい」という理想がある。
私が始めたら経験するだろう「こと」は、SNS上のこの人がすでに到達している「点」だから知っている、気がしている。
私は始めてもいないのに。
結局、いつまでたっても、何に対しても消費者で、ただ次のコンテンツを待つのみなのだ。
何をして、どんな行為で、時間を使って人生としていくのか。
選択肢が増えた時代だからこそ、きっと自らの選択にはその分、決断の重さが増えたんじゃないかと思う。
みんなは主体的な日常を送っていますか。どんな日常なんでしょうか。