おプロの話
第一章 お風呂嫌いなぼく
「いやーーーーー!!お風呂入らないもん!!絶対嫌だもーーーん!!」
お風呂場と書かれた扉の前で、可愛い垂れ耳うさぎのぬいぐるみが首をぶんぶんと横に振っている。
「でも、まんじろう、さすがに頭のモフ毛にお醤油が付いたままなのはダメだと思うな」
かいぬしがまんじろうの前にそっと座り、よしよしと頭を撫でながら説得をしている。
「お醤油だったら、お出かけした後みたいに濡れたタオルで拭いてくれればいいもん!お醤油くらいなら、ぼく仲良くできるもん!!」
まんじろうは相当入浴を回避したいようで、首を左右に激しく振り、お醤油と仲良くするなどという訳の分からない宣言でその場を切り抜けようとしていた。
まんじろうは、かいぬしと出会ってから一度も自分から進んでお風呂に入ったことがない。モフ毛が汚れてしまった時は、かいぬしになるべく濡れタオルで拭き取って貰っている。
説得が上手くいったときは嫌そうな表情をしながらもお風呂に入ってくれるのだが、今日は何があっても入らないという目付きでかいぬしを見ていた。
「ぼく、今日は絶対にやだもん!この間頑張ったもん!」
まんじろうは体をぷるぷる震わせて、はっきりと言い切った。この行動は本当に嫌がっている時にいつも現れる。かいぬしはそれを見て、ふんわり優しく両手を広げた。まんじろうが腕の中に入ってくれるのを待っている。
「そうだね。前回の焼きそばソースの時も頑張ってくれたもんね。じゃあ今日は濡れタオルでふきふきするね」
まんじろうはかいぬしのいつもの声を聞き、ほっとした表情でかいぬしの腕の中に収まった。先ほどまでの鋭い目付きも、いつもの黒くて丸いキラキラした目に戻っている。
「よし、それじゃあふきふきするから、お耳ピシッとしててね~」
かいぬしがまんじろうの頭についたお醤油付きモフ毛を拭き取っていると、散歩帰りのうさぎのぬいぐるみがお風呂場にルンルンと入ってきた。上に伸びた耳がいつも以上にぴょこぴょこしている。
「あら、まんじろうもお風呂ですか?」
そのうさぎのぬいぐるみの手にはお気に入りのお風呂セットが握られており、その中には今日買ってきた新品の石鹸が入っている。
「マーガレット、お帰り!ぼくがお風呂に入るのはかなり妥協して夏の暑い日くらいだよ」
まんじろうは答えながらも、変わらずかいぬしに言われた通り耳をピシッと動かさず目までぎゅっと閉じていた。
マーガレットは穏やかな笑みを浮かべながら、素直に拭かれているまんじろうを見ている。
「まんじろうがお兄ちゃんなのに、この景色だけ見ていると弟のようですね。なんだか新鮮です」
「ぼくもこの格好だけはお兄ちゃんらしく見えないと思ってるよ」
まんじろうはキラキラと虹色に光る箱からダイヤの形の石鹸を取り出すマーガレットを横目でちらっと見て、首をうーんと傾げた。マーガレットもその様子に気が付き、こちらは小さく首を傾げている。
「どうしてマーガレットはそんなにお風呂が楽しそうなの?しかも毎回お風呂セットの内容も違うよね」
「逆にどうしてまんじろうはそんなにお風呂が苦手なんでしょうか。お風呂に入るとスッキリしませんか?」
2匹はお互いに純粋な疑問を口にしていた。この兄妹は好みも性格も違うが、このように気になることをすぐ聞くのは似ていた。
マーガレットは綺麗好きでいい匂いがするものをよく集めている。
石鹸集めもその延長線上の趣味でお風呂で試しては友達におすすめしているため、巷では隣の石鹸屋さんと呼ばれているらしい。
「マーガレットがお風呂好きな理由はピンっと来るけど、ぼくがお風呂苦手な理由は正直自分でもよく分からないよ。なんとなく体が嫌がってるって感じ」
まんじろうはかいぬしによる濡れタオル拭きを終え、うーむと腕を組んでいた。ちなみに頭のモフ毛のお醤油はうっすらと残っている。
かいぬしはまんじろうが溢したお醤油付き絨毯の染み抜きにお風呂場を出て、もふもふのうさぎ兄妹はその場でお風呂談議をしていた。
「ちなみにまんじろうは海とかプールは泳げましたよね?」
マーガレットはお風呂場の扉を開け、うっすら入る西日に目を細めるとオレンジ色に染まった湯船に手を入れる。新しく買った石鹸を湯船の側に置き、入浴剤をトポトポと入れた。気持ちの良い温度と匂いに満たされたお風呂場で、マーガレットはその空間に混ざるように大きく背伸びをした。
「うん、暑い日だったら冷たい水が気持ち良いから泳げるよ」
まんじろうはお風呂場と脱衣所の境目に座り、湯気で湿っていくマーガレットをぼーっと見ている。
なぜ自分はお風呂に気持ちよく入ることができないのだろうか、そう考えたことはこれまでもよくあった。その度に色んな方法を試してみたけれど、今日までお風呂を良いものと思うことができずにいる。
マーガレットが目の前で石鹸を何度もぬるま湯に通し、七色に輝く泡を増やし続けている姿を見ても心が躍ることはない。むしろ、その泡が自分の体に張り付く瞬間を目の前に映し出してしまう。まんじろうがギュッと目を閉じてバッと立ち上がろうとしたその瞬間、両手いっぱいに泡を抱えたマーガレットが、パチンと弾けるような声で言った。
「まんじろう、おプロに会ってみませんか?」
(続く)