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おプロの話
第一章 お風呂嫌いなぼく
「いやーーーーー!!お風呂入らないもん!!絶対嫌だもーーーん!!」
お風呂場と書かれた扉の前で、可愛い垂れ耳うさぎのぬいぐるみが首をぶんぶんと横に振っている。「でも、まんじろう、さすがに頭のモフ毛にお醤油が付いたままなのはダメだと思うな」
かいぬしがまんじろうの前にそっと座り、よしよしと頭を撫でながら説得をしている。
「お醤油だったら、お出かけした後みたいに濡れたタオルで拭いてくれればいいもん!お醤油くらいなら、ぼく仲良くできるもん!!」
まんじろうは相当入浴を回避したいようで、首を左右に激しく振り、お醤油と仲良くするなどという訳の分からない宣言でその場を切り抜けようとしていた。
まんじろうは、かいぬしと出会ってから一度も自分から進んでお風呂に入ったことがない。モフ毛が汚れてしまった時は、かいぬしになるべく濡れタオルで拭き取って貰っている。
説得が上手くいったときは嫌そうな表情をしながらもお風呂に入ってくれるのだが、今日は何があっても入らないという目付きでかいぬしを見ていた。「ぼく、今日は絶対にやだもん!この間頑張ったもん!」
まんじろうは体をぷるぷる震わせて、はっきりと言い切った。この行動は本当に嫌がっている時にいつも現れる。かいぬしはそれを見て、ふんわり優しく両手を広げた。まんじろうが腕の中に入ってくれるのを待っている。
「そうだね。前回の焼きそばソースの時も頑張ってくれたもんね。じゃあ今日は濡れタオルでふきふきするね」
まんじろうはかいぬしのいつもの声を聞き、ほっとした表情でかいぬしの腕の中に収まった。先ほどまでの鋭い目付きも、いつもの黒くて丸いキラキラした目に戻っている。
「よし、それじゃあふきふきするから、お耳ピシッとしててね~」
かいぬしがまんじろうの頭についたお醤油付きモフ毛を拭き取っていると、散歩帰りのうさぎのぬいぐるみがお風呂場にルンルンと入ってきた。上に伸びた耳がいつも以上にぴょこぴょこしている。
「あら、まんじろうもお風呂ですか?」
そのうさぎのぬいぐるみの手にはお気に入りのお風呂セットが握られており、その中には今日買ってきた新品の石鹸が入っている。
「マーガレット、お帰り!ぼくがお風呂に入るのはかなり妥協して夏の暑い日くらいだよ」
まんじろうは答えながらも、変わらずかいぬしに言われた通り耳をピシッと動かさず目までぎゅっと閉じていた。
マーガレットは穏やかな笑みを浮かべながら、素直に拭かれているまんじろうを見ている。
「まんじろうがお兄ちゃんなのに、この景色だけ見ていると弟のようですね。なんだか新鮮です」
「ぼくもこの格好だけはお兄ちゃんらしく見えないと思ってるよ」
まんじろうはキラキラと虹色に光る箱からダイヤの形の石鹸を取り出すマーガレットを横目でちらっと見て、首をうーんと傾げた。マーガレットもその様子に気が付き、こちらは小さく首を傾げている。「どうしてマーガレットはそんなにお風呂が楽しそうなの?しかも毎回お風呂セットの内容も違うよね」
「逆にどうしてまんじろうはそんなにお風呂が苦手なんでしょうか。お風呂に入るとスッキリしませんか?」
2匹はお互いに純粋な疑問を口にしていた。この兄妹は好みも性格も違うが、このように気になることをすぐ聞くのは似ていた。
マーガレットは綺麗好きでいい匂いがするものをよく集めている。
石鹸集めもその延長線上の趣味でお風呂で試しては友達におすすめしているため、巷では隣の石鹸屋さんと呼ばれているらしい。
「マーガレットがお風呂好きな理由はピンっと来るけど、ぼくがお風呂苦手な理由は正直自分でもよく分からないよ。なんとなく体が嫌がってるって感じ」
まんじろうはかいぬしによる濡れタオル拭きを終え、うーむと腕を組んでいた。ちなみに頭のモフ毛のお醤油はうっすらと残っている。
かいぬしはまんじろうが溢したお醤油付き絨毯の染み抜きにお風呂場を出て、もふもふのうさぎ兄妹はその場でお風呂談議をしていた。
「ちなみにまんじろうは海とかプールは泳げましたよね?」
マーガレットはお風呂場の扉を開け、うっすら入る西日に目を細めるとオレンジ色に染まった湯船に手を入れる。新しく買った石鹸を湯船の側に置き、入浴剤をトポトポと入れた。気持ちの良い温度と匂いに満たされたお風呂場で、マーガレットはその空間に混ざるように大きく背伸びをした。
「うん、暑い日だったら冷たい水が気持ち良いから泳げるよ」
まんじろうはお風呂場と脱衣所の境目に座り、湯気で湿っていくマーガレットをぼーっと見ている。
なぜ自分はお風呂に気持ちよく入ることができないのだろうか、そう考えたことはこれまでもよくあった。その度に色んな方法を試してみたけれど、今日までお風呂を良いものと思うことができずにいる。
マーガレットが目の前で石鹸を何度もぬるま湯に通し、七色に輝く泡を増やし続けている姿を見ても心が躍ることはない。むしろ、その泡が自分の体に張り付く瞬間を目の前に映し出してしまう。まんじろうがギュッと目を閉じてバッと立ち上がろうとしたその瞬間、両手いっぱいに泡を抱えたマーガレットが、パチンと弾けるような声で言った。
「まんじろう、おプロに会ってみませんか?」
第二章 おプロというお仕事
「おプロに会ってみませんか?」
マーガレットからそう言われたまんじろうは、目をまん丸にして泡だらけになったマーガレットを見た。その泡はさっきよりもふわふわで粒の丸さが一目で分かり、その泡にまんじろうのきょとんとした顔がうつりこんでいる。
「私の知り合いにお風呂のプロ、つまり『おプロ』がいるんです。まんじろうに会わせてあげたいと思ったのですがどうでしょうか?あら?まんじろうもお風呂入りますか?」
マーガレットは新しい石鹸からできたふわふわの泡を今度は湯船に浮かべ、お風呂に入る準備を始めている。
「お風呂は入らないけど、おプロの話は気になるかな!お風呂から上がったら聞かせてよ」
まんじろうはマーガレットに手を振り、お風呂場の扉を閉めてその場を離れた。
それからマーガレットが入浴を終えてぬいぐるみのみんなでご飯を食べ終えた後、二匹はホットミルクを飲みながら話していた。テーブルにはマーガレットが持ってきた「おプロ基礎」という本が開かれている。
おプロとは、ぬいぐるみに多い「おふろこわい」「おふろきらい」という症状を始めとするお風呂の悩みを実際にお風呂に入りながら解決していく大事なお仕事です。そして……
マーガレットはまんじろうに本を見せながら、おプロのことについてポイントを押さえて説明した。「まぁ何となくおプロさん達がすごいぬいぐるみなのは分かったけど、ぼく自分のお風呂嫌いな理由が分かっていないし、そもそも説明するのがとても苦手なんだ。それに、お風呂に入れなくても今のところ困ってないから大丈夫だよ」
まんじろうはホットミルクのおかわりにハチミツを入れ、スプーンでくるくる混ぜている。ホットミルクは真っ白からほんのり今日の夕陽を混ぜたようなキャラメル色になった。
マーガレットはどうしてもまんじろうにおプロへの興味を持って貰いたくて、「とっておき」を使うことにした。
「実はその知り合いのおプロさん、まんじろうの大ファンなんですよ」
マーガレットから出た突然の告白にまんじろうは素直な声を漏らした。
「えー!僕のファンなのー?えへへ、嬉しいなー!一体どこが好きなのか聞きたくなっちゃう!」
まんじろうはさっきまでとは違いうきうきしているようで、顔はニコニコ、垂れた耳はピコピコ動いている。
ぬいぐるみの子たちの間ではまんじろうはかなり親切だと評判で、特にぬいぐるみの世界に来たばかりの子たちからは「ぬいの世界に来たら一番最初にまんじろうに会いに行くといい」と言われている。
「それにいつもは忙しくて予約の枠も埋まっているそうなんですが、まんじろうに会えるならそれも微調整して待っているみたいです」
マーガレットは先ほどまでまんじろうに説明していたおプロ基礎の本に、白くて柔らかいモフモフの右手をそっと乗せた。右手の先にはおプロの名刺が置かれている。
「このおプロさんはそばくんが住んでいるクチバシ町付近のおプロ場にいますよ。お昼から営業しているのでそばくんに会いに行った後でも、寄ってみてください。人参も用意しているようですし」
まんじろうは自分がおプロに会って何をするのか忘れてしまっているようだ。先ほどから上の空でニマニマしている。頬は緩みっぱなしだ。マーガレットは何とかまんじろうがステップを一つ踏んだことにホッとしている。
「ぼく、明日行ってくるよ!そばくんにも会いたいし!」
まんじろうはホットミルクを飲み終え、お出掛け用のポシェットに小物を入れ始めた。小さく丸いしっぽは、床に当たっていてもピコピコ動いているのが分かる。
マーガレットはまんじろうのカップを自分のと一緒に台所へ持って行き、そのまま先に眠りについた。
第三章 そばくんのお家にて
次の日まんじろうはワクワクしながら詰め込んだポシェットを持ち、いつもより早く外に出ていった。
早起きの得意なマーガレットでさえも、目を擦りながらまんじろうを見送ったという。
「まんじろう、いつもは目をしょぼしょぼさせて朝を過ごすのに今日はバッチリ目を覚まして行きました」
マーガレットはかいぬしからホットミルクを受け取り、朝食をとっている。
「そういえば、マーガレットはどうしてそんなにまんじろうのお風呂嫌いを気に掛けてくれているの?」
かいぬしはマーガレットの向かいに座ると、目玉焼きにナイフを当て、一口サイズにして一気に食べた。いつもはここに寝惚け顔のまんじろうがマーガレットの隣でにんじんを食べているが、今日はぽっかりとして寂しい。
「お風呂に入らなくなったり、ご飯を食べなくなったりすると『アイワスレ』と呼ばれる症状がでます。この症状は周りから愛されることが苦手になると言われているんです」
マーガレットは最後の茹でキャベツを口に入れ、もぐもぐしている。
人間でも「セルフネグレクト」という言葉があったはずだ。自分で自分の世話が出来なくなるというもの。それに近いものだろうか。
「今はまだ、嫌々でも入ってくれてますが完全拒否になるとそこからお風呂に入る習慣を身に付けるのは大変と聞きます。だから今がチャンスなんです」
マーガレットは昨日の夜まんじろうに見せていたおプロ基礎の本をかいぬしに渡した。マーガレットはお布団ソムリエとして活動もしている資格に興味を持ったぬいぐるみで、この本は資格集めの一つだろう。
かいぬしはマーガレットから借りた本に目を通し始めた。マーガレットが説明してくれた内容は『お風呂嫌いの危険性』のページに書いてあった。
マーガレットはごちそうさまでした、ともふもふの手をあわせて食事を終えた。
「これからもまんじろうを大事なお友達だとみんなが思いたいんです。知り合いのおプロもその一匹なので、きっと大丈夫だと思いますよ」
マーガレットにおプロ基礎の本を返し、かいぬしはテーブルに置いてある食器を片付け始めた。そして今日は棚にしまってあるまんじろうの食器をじっと見つめていた。
「そーばくん!!ぼーくだよ!」
まんじろうはクチバシ町にあるそばくんの家を訪れていた。クチバシ町はぬい広場のあるヌイノ森町から西に二十分歩くと見えてくる町だ。
町の入り口にはクチバシをイメージしたものか、カラフルな三角形を所々に使ったウェルカムアーチが置いてある。そばくんはそのウェルカムアーチを抜けて五軒目のモノトーンハウスに住んでいた。
そばくんが扉を開けてまんじろうを部屋の中に入れると、そこにはもふもふ空間が広がっていた。もふもふの魚型カーペットに始まり、ふわふわの魚柄のタオルがかかった今にも泳ぎだしそうな魚型クッションが置かれていた。
ベットはそばくんのような色合いで、掛け布団の丁度おへそにあたる所にはばってんがついている。「はいこれ、お土産のおさかなクッキーだよ!ご要望にお答えしちゃった!」
そう言うとまんじろうはそばくんが用意してくれた皿にざらーっとクッキーを流し入れる。 心なしかおさかなクッキーが皿の中に飛び込んでいったように見えた。
まんじろうはそばくんのベットが置いてある側に、そばくんは入口に近い椅子に座った。
おさかなクッキーを口に運び、そばくんと話しているとまんじろうの視線の先にあるものが目に入ってきた。
「そばくん、あそこに置いてあるカゴってお風呂セット?」
そばくんは予想していない質問に目を丸くして、後ろに置いてあったカゴを確認する。
「そうしょば!珍しいしょば、まんじろうがお風呂セットを気にするなんて」
そばくんは改めておさかなクッキーをポンッと口に入れた。塩味がほどよく効いていて、右手が既に皿へと伸びている。
「実はぼく、この後おプロさんに会いに行くんだ」
そばくんは再度目を丸くしてまんじろうの顔をじーっと覗き込んだ。まんじろうの目に映るそばくんの瞳は先ほどよりもしっとりと黒く、不安の色が映っていた。また、手に持っていたおさかなクッキーは皿に置かれている。
「本当に?悪くなったにんじんでも食べちゃったしょば?」
「大丈夫!にんじんは新鮮な状態でしか食べないよ!」
そばくんの心配をよそに、まんじろうは垂れた耳をぴこぴこさせながら目を細め笑顔で答えた。そして安心させるために昨日マーガレットと話した内容をそばくんにも伝えると、ようやく皿に置いていたおさかなクッキーに手を伸ばした。
「なるほど、そういうことだったしょば!」
「そう!だからぼく、会いに行ってくるよ」
まんじろうが最後のおさかなクッキーをもぐもぐと食べ終えると、椅子からぽてっと床に降りた。ゴソゴソとポシェットの中身を確認し、そばくんの家を出る準備をしている。
その姿をぽけーっと見ていたそばくんがさらっと気になることを口にした。
「そういえばまんじろう、隣町との境を歩く時は気を付けるしょば!確かそのおプロさんそこ付近に住んでて、色んなぬいぐるみのお風呂相談を受けているみたい!」
まんじろうはおプロの場所を教えてくれたのかと思い、わかった!と軽く返事をしたのだった。
第4章 おプロのモカとアール
「そういえばまんじろう、隣町との境を歩く時は気を付けるしょば!確かそのおプロさんそこ付近に住んでて、色んなぬいぐるみのお風呂相談を受けているみたい!」
そばくんが言っていたことをまんじろうはぼんやりと思い出していた。
クチバシ町の隣町というとオオハネシロ湖のある自然豊かな場所で、名前はハネシロ町といったはずだ。
その湖には白鳥の像があり、「愛すことだけでなく愛されることも忘れてはならない」という言葉がその像近くの石碑に彫られている。
ぬいぐるみなら一度は行ったことのある観光スポットであり、そこから帰ってくるとほわほわとした気持ちになれるというパワースポットとしても知られている。
「気を付けてねって言われたってことは、ぼくが道に迷っちゃうかもって心配してくれてるのかな?優しいなそばくんは」
まんじろうはそばくんの気持ちにほわほわしながら、おプロの家を目指して道をてくてく進んで行った。
おプロのぬいぐるみがいる場所をおプロ場という。これはぬいぐるみの世界各地にあり、中心のぬい広場にはみんなで入ることのできる大きなおプロ場がある。
ここのおプロは受付をしつつ、オススメの石鹸やお風呂グッズの相談を受けていた。一方、今回まんじろうが目指すおプロ場は町の中にある予約制で、お風呂に入ることのできないぬいぐるみを受け入れている。
ぬい広場のおプロ場がよりお風呂を楽しむためというのならば、町の中にあるおプロ場はお風呂を楽しめるようにするためといえるだろう。
まんじろうはしばらく休みを挟みながらぽてぽて歩いていた。すると左手に看板が見え、そこには「クチバシ町ハネシロ町境おプロ場はこちら」と書かれている。歩き始めて時間はお昼になろうとしていた。
「確か、この看板が見えたら左にくるっと曲がるんだっけ」
まんじろうはマーガレットから貰っていた手書きの地図を見て、曲がる道に間違いがないか確認している。これから向かう道の先は少し上り坂だ。
地図の看板にあたる場所にはマーガレットの顔が描かれており、顔の右上には吹き出しが可愛らしくもこもこと書かれてあった。吹き出しの文字は「ここでくるっと左に曲がってくださいね」と赤いクレヨンで強調されていた。
「やっぱりそんなに迷う所じゃないと思うんだよなぁ。マーガレットから地図を貰っていたことは話したし、そばくん、何に気を付けてって言ってたんだろう」
まんじろうは道に間違いがないことを確認するとお気に入りのにんじんポシェットに地図をしまいこんだ。その中にはおやつのにんじんと、おプロ場利用料を払うための「モフ」が財布にいくらか入っている。
「すごいなぁ、ぼくの余ったモフ毛をこんなにちっちゃくしちゃうなんて。モフを作ってくれるもふ花堂のぬいには感謝だよ」
坂道を上り終えて顔をふわっと道の先へ向けたまんじろうは、目の前に広がる景色に目を丸くした。
そこには綺麗な水をイメージした青と柔らかく飛び込みたくなるような泡をイメージした白で塗られたレンガ造りの家があった。その家の周りには背の高い木が植えてあり、周りからはその家周辺は森が茂っているようにしか見えないようになっている。
さらに一番の驚きはその家を中心として周りの家はすべて外を向いている。まるで大事なものを守るために取り囲んでいるようだ。
まんじろうは見たことのない景色をキラキラした黒い目に映し、口元はにんじんを食べる直前のようになっている。
「なんだか既にわくわくしてきたよ!」
まんじろうはそう言うと、地面から両足が離れているようなスキップをして入り口に向かったのだった。
「お待ちしておりました〜!まんじろうさん!こちらのお部屋へどうぞ!」
おプロ場の受付にいたぬいぐるみはモカというタヌキの女の子で、毛足が5センチほどあった。瞳の色は珍しく柔らかい緑色だ。モカと早速仲良くなったまんじろうはこのおプロ場の周りにある家について聞いてみた。
すると、おプロ場の周りの家はおプロ場で働くぬいぐるみが住んでいるらしく、このおプロ場を運営するモカを含めた2匹もそこにいるとのことだった。
「やっぱり近いところがいいよね~!私はタヌキだから応募してあそこに住んでるけど、アールくんは実家があそこだからな~」
モカはうんうんと頷きながら、まんじろうにウェルカムにんじんジュースを出した。まんじろうは歩き疲れからか、ごくごくと勢いよく飲んでいる。そんな世間話に花を咲かせていると、別の部屋からガチャッと音がした。まんじろうが音のする方を見ていると、ドアの向こうから感謝の言葉が聞こえてきた。
「アールくん、ありがとうございました!明日から少しずつお風呂練習してみます!」
どうやらおプロのサポートを終えたぬいぐるみが帰宅する所のようだ。
「いえいえ~。無理はせんように~ね~」
このおプロ場は受付以外に部屋が四つある。部屋を順番に回っているため、このまま行くと次はまんじろうの番だった。
「それではそろそろアールくんが来るので、こちらの問診票を書いてお待ちください~」
そうモカに言われてまんじろうは鉛筆を握り、答え始めた。
お風呂が大変なのはいつからですか?
『たしか、二ねんくらいまえです!』
お風呂には誰かと入りますか?
『いつもぼくひとりです!』
お風呂から出たくなるのは、お風呂場に入ってすぐですか?しばらくたってからですか?
『すぐにでたくなります!』
お風呂の準備は何をしますか?
『からだをふくタオルをよういしてます!』
この他にもいくつか問診があった。それはまんじろうが答えやすく、それでいてまんじろうの現状を把握するのに最適だった。
まんじろうが最後の問診を書き終えたタイミングで、部屋のドアがガチャリと開いた。
「こんにちは~今日は来てくれてありがとう~ね~マーガレットちゃんから色々聞いてるよ~」
その声の主は見た目はモカに少し似ているが毛色が黒に近く、毛足は短く切り揃えられている。加えて黒い丸眼鏡をかけていて、見た目はかなり真面目そうだ。
「モカはタヌキ、ぼくはアライグマだ~よ~」
よく間違われるのかアールは、まんじろうが聞くよりも先にアライグマだと答えた。違いのアピールなのか器用な両手をまんじろうの前に出してにぎにぎしている。そしてなぜかまんじろうもアールの真似か、同じようにもふもふの手をにぎにぎしている。
「アールくん、ぼくのお風呂嫌いは治せるのかな?」
まんじろうはもじもじしながら質問した。
するとアールは慣れた様子で、
「治せるよ~大丈夫だよ~」と答え、まんじろうに向けて再びにぎにぎアピールをしている。まんじろうはアールのあっさりした答えに目を丸くしていた。
アールはまんじろうの様子を見て言葉を続けた。「まんじろうの悩みが軽いとは言ってないからね~おプロを頼ってくれる時点で結構大変なことだし~まんじろうの状態なら解決は早いよ~ってことだ~よ~」
まんじろうはこくこく頷いている。顔もいつも通りに戻っている。
「じゃあ、早速お風呂場に行こうね~」
アールは器用な手でまんじろうの手をふわっと包み込むように握り、ゆったりと部屋を出たのだった。
第五章 おプロじゃなくても
まんじろうとアールは暖かいオレンジ色に包まれた廊下を抜けて、お風呂場に着いていた。そこは二つの部屋に分かれていて、手前の部屋には様々なお風呂グッズが並べられていた。バスタオルにパジャマ、石鹸に加えて湯船に浮かべられるおもちゃまで揃っている。
「はい、それじゃあ~ね~、一緒に選びましょうかね~」
アールはまんじろうの手を優しく握り、部屋の中を案内した。そこはカラッとしていて明るく、壁紙は淡い水色で清潔感が漂っている。更に窓の数が他の部屋よりも多めで、窓を右と左から寄せて真ん中にガラスが来るようにしてあり、空気の出入りがしやすいように工夫されていた。まんじろうは部屋を訪れてから予想外の出来事で頭がいっぱいだった。「あの、あのね、アールくん。ここは一体なんなの?お風呂っていったらしめしめ~じめじめ~で、静かな所だよね?でもここは、まるでお店屋さんみたいに明るいよ?」
まんじろうからの止まらない質問にアールはまったり答え始めた。するとこの部屋はお風呂に入る前にまずはワクワクして貰おうと考えた空間で、お風呂が苦手な多くのぬいぐるみにとっては緊張が解れる良い時間なのだそうだ。
実際、まんじろうもこの部屋に入ってからというもの、にんじんモチーフのお風呂グッズに目を光らせて、側からはお風呂嫌いには到底見えなかった。
アールと一緒に部屋を巡ったまんじろうは数分後、初めての自分専用お風呂グッズを手に入れた。にんじん柄のパジャマやタオル、マーガレットもよく使っているという森の香りのする石鹸、そして、お風呂に浮かべるまんじろうの新しい相棒のアヒルさんだ。
まんじろうは既に何かをやり遂げたと言わんばかりの満足そうな表情をしていた。アールはその様子を優しい眼差しで見つめている。
「さてさて〜、まんじろう〜。今体験して貰ったお風呂の準備はどうだったかな〜?これまでと違ってすごくワクワクしたんじゃないかな〜?こうやってまずは、自分の好きなものを側に置いておくことが大切なんだ〜よ〜」
アールはまた器用な手をにぎにぎして、アヒルさんをぎゅっと抱きしめているまんじろうに話しかけた。抱かれたアヒルはこれからのお風呂を楽しみにしているのかまんじろうに笑いかけているみたいだ。まんじろうも緊張がほぐれ、アールの説明にうんうんと頷き、しっかり聞いている。
「それじゃあ、まんじろう~。早速お風呂に入っていくから、こっちのかごにお風呂セットを入れて、石鹸とアヒルくんだけ持って~ね~」
アールの案内通りに準備をしたまんじろうはお風呂場の入り口にぽてぽてと向かった。そしてその場で二、三回ジャンプをした。着地する度に、もふんっと全身のふわふわな毛が心地よく揺れている。緊張が解れたとは言え、苦手なものに立ち向かうには心の準備が必要なものだ。アールもその様子を見て、アールを待つ間に答えていた問診の結果を先に話し始めた。
「まんじろうの症状はオフロニガテの初期だ~よ。具体的には体を覆うような湿気に敏感で、モフ毛の湿り始めが一番不快感を覚えるみたいだ〜よ〜。でもお風呂嫌いのぬいぐるみの中では軽い方で、ポイントを抑えればむしろお風呂が好きになるタイプだから〜ね〜。安心してね〜。じゃあ、扉を開けるよ」
アールの説明が終わるのと同時にお風呂場の扉が開けられた。
確かにアールの言ったようにまんじろうはお風呂場のドアを開けた瞬間にいつも体をギュッと丸めて我慢しているようだし、お風呂に入りしばらくすれば落ち着くようだった。苦手なものが続けて目の前に現れれば、体は習慣のように意識せずとも動いてしまうものだ。
そしてまんじろうは今も体を丸めてアヒルさんにギュッと抱き付いている。
「はい、じゃあ一歩足を前に出してみて〜」
そう言われてまず右足をプルプルさせながらお風呂場の床にそーっと、まるでバレてはいけないかのように伸ばしていく。そして、少し遅れて左足もモフッと着地するとまんじろうの両足はその場で何度も飛んだり跳ねたりしていた。
「アールくん!!!!この床すごいよ、すごくからからだよ!!!しめしめじゃない!」
まんじろうは足から伝わる喜びを素直にアールへと伝えた。アールはまんじろうが喜んでいる姿を見て心がじわーっと満たされていった。
もちろんこれまでおプロとしてここに来てくれるぬいぐるみのためにお仕事をしてきて、感謝の言葉も多く貰ってきた。それでもこんなに些細なことにも気が付いて喜んでくれるぬいぐるみは初めてだったのだ。アールはこの気持ちをまんじろうに伝えたくなった。
「まんじろう、こんなに喜んでくれて本当にありがとうだ~よ。でも、これだけじゃないんだ~よ~。顔に手をやってみて?いつもより楽じゃな~い?」
アールはまんじろうの手を取り、両手をもっふりとした頬っぺたに連れて行った。まんじろうは何度も頬っぺたに触れ、いつもと違う自分の様子にびっくりしている。
「アールくん、ここってお風呂場だよね……?」
まんじろうはこれまたアールが喜びそうな反応をしている。
「そうだ~よ~、お風呂場だ~よ~!窓を開けて湿気を溜め込まないようにしているんだ~、それにお風呂場自体も暖めてあるから湯気が増えることもないよ~」
アールはまんじろうが全身で喜びを伝えてくれたことが嬉しくて、説明をしつつも、ついつい顔がゆるゆるになってしまう。
まんじろうはアールからのお風呂場に関する説明を終えた後もぴょんぴょん跳ねたり、アールに質問をしたりしていた。
その後はアールからの石鹸の泡立て方や湯舟での簡単マッサージの仕方など、お風呂を快適で楽しい時間にするためのアドバイスを貰った。
そして、まんじろうからの、今日は来て良かったよ!ありがとうね!の言葉を貰った瞬間、アールのこれまで隠していた心の声が漏れたのだった。
「今日まんじろうに会えていなかったら、ぼく、おプロを辞めていたかも知れないな~」
まんじろうはアールの呟きに、うん、とだけ答えた。何となくアールが自分から話し始めてくれそうな気がしたからだ。
それにしても、アールがおプロを辞めようと思っていたなんて、まんじろうは全く想像できずにいた。今日一日しか話していないけれども、今のまんじろうの状態をすぐに見極めて適切なアドバイスをするだなんて、腕前がなければできないことに違いない。自分が得意なことでぬいぐるみのみんなの力になれるなんて、まんじろうにとっては羨ましい限りだった。
「ぼくはね~、アライグマの中でも特に手先が器用だからおプロになるように勧められたんだ~、まぁお風呂は大好きだし、ここのおプロ場を囲んでいるお家に住めるし、それに自分に出来ることがあるならやってみようかな~って思ってたんだ~よ」
まんじろうは、うんうんとお風呂から上がったアヒル君を抱っこして頷いている。もし自分にしかできないことがあるなら、それが自分の天職だと一度は思うのではないか。でも、アールは悩んでいた。「やっぱり、自分がやりたくて始めたことではなかったから、上手くいかなかった時に辛いと感じすぎてしまうんだ~よ~。嬉しいことがたくさんあっても、辛いことにばかり心が動いてしまうんだ」
アールは恥ずかしいのか、顔を背けるように足元に置いてあったお風呂グッズを拾い上げた。それはまんじろうにアドバイスをするためのアール専用道具だった。まんじろうはアールの気持ちを心の中に広げてみた。そしてまんじろうはアールにするべき答えを口にした。
「アールくん、今日は会えて本当に嬉しかったよ。ありがとう!ぼくの苦手なお風呂を一緒に素敵なものにしてくれて、ありがとう!そして、今日までおプロを続けてくれてありがとう!また、会いに来るね!」
アールはまんじろうから貰った言葉をじんわりと心の中にしみこませた。そして、初めて会った時のように、にぎにぎポーズをして見せたのだった。
その後まんじろう達はなんだかすぐに別れるのが惜しくて、しばらく空いている部屋でモカも加えて話していた。
その中でアールから、ここのおプロ場を訪れるぬいぐるみの話を聞き、そばくんが言っていた、気を付けてね!の意味を理解した。
どうやらこのクチバシ町ハネシロ町境おプロ場は、他のおプロ場よりも深刻な状態のぬいぐるみがよく訪れるらしい。それは想像以上にひどいもので、例えば体は毛玉だらけで、歩くのもつらい、そんなぬいぐるみがいる。それをアールは一匹一匹時間を取り、自分を大切にできるように回復させていくのだ。
「何かのプロじゃなくてもいいんだ。誰かのために何かしたいと思ったら、自分ができることをしてあげて欲しいんだ。側にいるだけでもいい。それで救われるぬいぐるみもいるから。マーガレットちゃんだって、まんじろうの側にいたからこそできる最大のことをしようと、ぼくを紹介してくれたんだよ。マーガレットちゃんはまんじろうのために、まんじろうはぼくに最大級の感謝をくれて、ぼくはそれに答えようとおプロとして頑張った。誰かのためにしてあげたいの輪で優しさが広がったんだ~よ」
まんじろうは今回の全ての出来事を深く心に刻んだ。こんなにも誰かのことを想ってくれるぬいぐるみがいる、その事実がまんじろうにとって心から嬉しいことだった。そして、まんじろうも自分にできることをしたいと思った。
よく晴れたある日のこと。
「まんじろう、ぬい広場前のおプロ場に行くしょば~!一緒にお風呂入ろうしょば~!」
そばくんがお風呂セットを持ってまんじろうに会いに来ている。
「もちろんだよ!あと、今日はハネシロ町のお友達も誘っていいかな?おプロさんから、誰かと一緒にお風呂へ入ってみようって言われてるらしくて!」
まんじろうもお気に入りを詰め込んだ自分専用のお風呂セットを持って答えた。にんじん柄の新しいパジャマをそばくんに見せびらかしたいようなのか、さっきからうずうずしている。
「もちろんしょば!まんじろうとなら、お風呂が楽しいっていうぬいぐるみが最近増えたしょばからね!お風呂好きを増やしていこうしょば!」
まんじろうとそばくんはそれぞれの大好きを鞄の中に入れ込んで、今日もおプロ場に向かうのだ。少しでも楽しいと思ってもらえるように。
おわり