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ワイは偽善者、それでいい

 皆さんは性善説と性悪説、どちらを信じるだろうか。
 私は、善が道徳的に正しいこと、悪が道徳的に正しくないことと定義するならば、性悪説を信じたいと思う。なぜなら、道徳を身につけている人を見ないと道徳は育たないと思うからだ。例えば、道にゴミが落ちていたとしても誰も拾わない世界で育ったら、ゴミを拾う子どもは育たないと思う。
 ただ、人間は生来悪だとしても、善を学ぶ力はあると思う。ゴミを拾った方が善いと思うきっかけさえあればゴミを拾うようになるだろう。

 最近、善を学ぼうと意識し努力している人の美しさに見惚れることがある。そのような人は善が突発的に求められた瞬間すぐ対応でき、その人の周りに優しい世界を作ることができるだろう。

 私自身は元々欲望のままに生きていて、言いはしないものの嫌いなものはとことん嫌いで、わがままである。隠してはいるものの、ふとした時にそれが見えそうになり、焦る。そんな時、心が綺麗だったらなぁと思わざるを得ない。努力せずに綺麗な心を得られたらどんなにいいだろう。しかし先ほど言った通り、多分善は努力で磨かれる部分が大きい。私は頑張るしかないのである。

 きっと、優しい人は誰よりも優しくあろうとして頑張っている。優しさは習慣によって体に染み込んだもので、努力の結晶であると私は思う。

 善を学ぶ力は人によって差があるかは予想できんが、善を学びたいと思う人は、善が与えられた時の感動を大きく感じているんじゃないかな〜と思う。
 感動の体験は年を取るにつれてもう味わい尽くしたものに置き換わるが、同じ感動を毎回喜べると人生楽しそうだしいいな。新鮮に喜びたい。新鮮に喜ぶには新鮮に喜ぼうとする意識が多分必要である。

 きっと何かになるためには「こうありたい」みたいな気持ち、意識がいるんだろうな。
 ぼちぼちやってくか、、、。


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