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八十の手習い。
#20250207-514
2025年2月7日(金)
大きなあくびが立て続けに出た。
右手首を骨折して12日目。利き手である右手が使えないと、慣れない部位を使うせいか、やけに疲れる。
ノコ(娘小5)の下校まで1時間半。それまで少し寝ておこうと横たわった途端、スマートフォンが鳴った。
母からだ。
出ないわけにはいかない。
「もしもし、どうしたぁ?」
なんとか睡魔を払って明るい声を出す。
「さっきはごめんね、出先だったから」
さっきといっても午前中の話だ。
昨年11月に父が亡くなってから、安否確認のため朝晩と母に連絡を入れている。Eメールのときもあれば、電話のときもある。今朝は、スマホをスピーカー機能にして洗濯物を干しながら言葉を交わそうと思った。
右手に負荷をかけないように干すには時間がかかる。目と手はふさがっているが、耳と口は空いているので電話するにはいい。母にかけたら、今、外出先だから話せないと切られた。
「うちから歩いて10分くらいのところに公民館があるでしょ」
そこで開かれている楽器教室に興味を抱き、見学していたという。
母は刺繡をはじめ、手芸まわりのことが好きであれこれ習っていた。
長年習うこともあれば、1日限りのワークショップにも足を運ぶ。カルチャースクールから服飾系の専門学校の短期講座、書籍を出版し、TVの手芸番組に出演するような講師の教室と多様だ。
ただどこも電車を乗り継いでいくところばかりで、徒歩圏内の教室は母の選択肢にはなかった。
母は社交的ではあるが、ほどよい距離を好み、近いところに人間関係を築きたくない傾向がある。
「だって、なにかあったとき、煩わしいじゃない」
なにかって、なんじゃい!と突っ込みたくなるが、まあ、いいたいことはわからないでもない。
そういっていた母だが、これから習うもののうち、ひとつは歩いても行けるものにしたいといいだした。80歳が近くなり、今は電車に乗って通えているが、だんだん厳しくなると感じたようだ。
レッスンに通うとなると、道具をはじめ、荷物も増える。最低限の貴重品だけを持てばいい街ぷらとは違う。
あまり期待せずに見学に行った地域の公民館の楽器教室。
母は気に入ったようだ。
講師がその楽器業界では著名な方だった。公民館に教室を持っているのはどうやら市内に在住しているからのようだ。そのため、生徒さんも市外の人が多く、徒歩10分で通える母はむしろうらやましがられたという。ご近所さんがいない。
そして、なにより――見学の数時間でどこまでわかるかわからないが――母としてはその場の雰囲気がよかったという。遠方からも通う意思の強さに、安くはない楽器を購入する経済力。それだけでも、ある意味生徒さんはふるいにかけられている。
しばらくの間、楽器は先生が貸してくださるという。
母ははじめて習う分野の楽器演奏に、続くかしら、できるかしら、といいつつも声が弾んでいる。
夫である父を亡くしたのは、昨年11月。
3ヶ月過ぎた今もまだ手続きが終わっていない。
新しいことをはじめるには、少し早いのかもしれないが、毎日手続きをしているわけにもいかない。先週、私が右手首を骨折してしまい、手続きをしに実家に行く回数が減っている。
ひとりの時間は長い。
母の気が少しでも明るいほうに向くのならば、ちょうどいい時期なのかもしれない。
「月4回なんて、そんなに通えるかしらん?」
母が2人きりの電話なのに、なぜか声をひそめていう。
「自分で練習して変な癖がついちゃうより、こまめに先生にチェックしてもらえるほうがいいんじゃない?」
「ねえねえ、ハマっちゃったらどうする?」
「ハマる前から、その心配をしなくていいよ」
「自分のがほしくなったらどうしよう。結構いいお値段するのよ」
「先生がその業界に詳しい方なら、きっと中古でもいいのをご紹介してもらえるよ」
次々浮かぶ気掛かりを母は口にするが、その声は春の気配に似てほがらかだ。
「六十の手習い」ならぬ「八十の手習い」。
それができるのも、母が健康であることと父がそれをできるだけの金銭を遺してくれたからだが、母の衰えぬ好奇心と行動力がまばゆい。
私も母のように「ふふふ」と好きなことを追い続ける七十、八十代になりたい。
母との電話は1時間半。
もうノコが帰ってくる。
ああ、お昼寝よ、さらば。
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