人生100年時代というが、数えるべきは「動ける時間」。
#20241015-473
2024年10月15日(火)
「人生100年時代」という言葉に、52歳の私はまだ半分を過ぎたところだと思っていた。
我ながら単純計算過ぎる。
今までの52年だって、おぎゃあと生まれたときからあれこれできたわけではないのにだ。
体を動かすことを覚え、笑ったり泣いたりを通じてコミュニケーションを覚え、日本語を覚え。
私は感じ、考えてはいたがそれを言語化して周囲に伝えることが苦手で、30歳を過ぎたあたりからなんとかできるようになった感じがする。さまざまなことを把握するのが人より10年は遅いのだと思う。
そのため、感覚的には30歳になってようやく周りが見えはじめ、40歳で結婚してから自分の意思で動けるようになった感じだ。それまでもしたいことをし、出掛けたいところへ出掛けていたので、あくまで「感覚的に」だ。
年を重ねるごとに――肉体の目玉は老眼がはじまりだしてはいるものの、心の目は鮮明になり、世界が少しずつ見渡せるようになってきた。
おもしろくなってきた。
だから、「人生100年時代」という言葉に心が躍った。
まだ私は半分だと思った。
先月、父の余命が短いと主治医にいわれ、改めてこれからの時間を見つめ直した。
父81歳、母77歳(喜寿!)。
父はつい最近まで市営の小さな畑で野菜を作り、天気がよければ1日おきに母と公園をゆっくり走っていた。街なかに出ることは好まず、日中はジョギングに畑仕事、家事、スーパーで買い物をし、夕方になれば早めに湯につかって、ちょっぴりの晩酌とTVを好んだ。本好きな父だが、加齢黄斑変性症を患ってからは字を読むことが難儀になったようだ。それでも新聞は毎日隅から隅まで読む。
趣味という趣味はなく――車の運転が好きだが、ここ数年はジョギングする公園と近所のスーパー、畑にしか行っていない――、友だちという友だちもいない。
それでも父を慕う人はいるらしく、ごくたまにお誘いがあったり、訪れる人がいる。父は会っているあいだは、ニコニコと楽しげでよく喋るが、それなら今度は自ら会いに動くかといえばそうではない。やりとりもしない。受け身なわけでもなく、「来るもの拒まず去るもの追わず」とは父のことかと思ってしまう。
常に朗らかで母がいれば十分らしく、淋しい様子はない。
対して、母は街なかが好きだ。
刺繍などの手仕事に興味があり、私が物心がつく頃から常に習い事をしている。
洋裁、和裁、陶芸、刺繍。
かなりの腕前までなったジャンルもあるが、人に教えることは厭い、「自分が楽しければいい」と生徒の領域を出ない。
友だちとは長くつきあう。
同郷をはじめ、結婚後は父の転勤先、習い事先とあちこちに友だちがいて、折を見てはランチをする。
一見明るく社交的だが、そう見られると腹を立てるのでおもしろい。
インドア派で運動はしたがらないが、父に公園へ連れていかれると真面目に日傘をさして歩いている。
新型コロナウイルス流行前は、国内外問わず夫婦でよく旅行をしていた。
体力があるうちでないと行けないからと遠い国を好んで巡っていた。コロナ禍があったので、もしなかったらの「たら」の話は難しいが、おそらく75歳くらいまでは海外にも行ったのではないだろうか。
国内であれば、つい今夏にも2人で旅をしていたので、80歳まではできるかもしれない。
両親を見ていると、体調に問題なければ、海外なら75歳、国内なら80歳までは動けそうだ。
今、私は52歳。
里子のノコ(娘小5)は10歳。おおめに見ても、あと10年は目も手もかかると思う。そうすると、子育ては62歳で一段落だろうか。いやいや、両親を見ていると、今でも自分のことより私や妹のことを気遣っているので一生「子育て」であり、一生「親」なのだと思うが、まぁ、とりあえずの区切りとしてだ。
海外まで動きたいのなら13年、国内なら18年。
80歳以降は、半径ウンkm圏内で成り立つ生活を楽しく過ごせればいい。
すべては私自身と周囲の人たちが健康ならばの話だが、こうやって見直すと52歳は半分ではない。
びゅんびゅんと飛びまわれる時間は思いのほか短い。
あれもこれもと身分不相応なことまで欲張るつもりはないが、時間は有限だ。
しかも、父のこと。
そして、母のこと。
それから、むーくん(夫)のご両親のこともある。
どうなるかわからないことが多くて計画を立てられることではないが、人生というより「動ける時間」を意識しないと見誤る。
なにを大切にし、なにを捨てるか。
ぐっと目が厳しくなる。