感受性が衰えていく人と豊かになっていく人の違い
多くの若い人たちが絶賛しているマンガや小説を読んで、「まあ、そこそこ面白いけど、絶賛するほどか?」と感じることはよくある。
また、自分が若い頃、夢中で読んだマンガや小説を読み返しても、若い頃ほど面白いとは感じないことが多い。
我ながら、すっかり感受性が衰えたなぁ、と思う。
感覚的には、以下のような感じ。
しかし、そういう自分の漫然とした黄昏気分に流されるのをやめて、分析的に自省してみると、「若いときに楽しめなかったけれど、中年になってから楽しめるようになったもの」もたくさんあることに気がつく。
感覚的には以下のような感じだ。
つまり、中年になると「若い頃の感受性」は衰えるが、
新しい感受性が生えてくるのである。
毛が抜けてハゲていってるのではなく、
毛が生え変わっているだけなのだ。
豪雪地帯に生息するニホンノウサギのように、秋になると茶色い毛が抜けていき、白い毛に生え替わっていくのである。
そして、人によっては、毛の総量は大幅に増えていく。
抜けていく毛より、生えてくる毛の方がずっと多くなるのである。
なぜそうなるのか?
もちろん、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返しているだけでは感受性は生えてこない。
むしろ抜け毛の方が多くなるから、感受性の総量は減っていく。
しかし、意識的に毛を増やしていると、話は違ってくる。
いつも同じようなものばかり食べたり飲んだりしているだけでは、味覚は衰える一方だ。
しかし、常に新しい食べ物・食材・料理法を試し、いろいろ比較実験や比較分析をすることで、新たな味覚がどんどん生えてくる。
料理には興味がない?
ならば、別に料理をしなくてもいい。
たとえば、単にウィスキーやブランデーの飲み比べをするだけでもいい。
毎回同じものを買うのではなく、アイラ・モルトでも、バーボンでも、ジャパニーズウィスキーでも、一本数百円のものから数万円のものまで、気になったものはどんどん買ってみて、丁寧に飲み比べをしてみる。
はじめは飲み比べセットとかでやってもいい。
テレビを見ながらじゃダメだ。全ての音を消し、味覚を研ぎ澄まし、味の違いを見分けることに、全神経を集中する。
小さなウィスキーグラスをたくさん買ってきて、ずらりと並べて、それぞれ違うウィスキーやブランデーを少しずつ入れ、味や香りの微細な違いを感じ取っていく。
一回やっただけじゃだめだ。何度も飲んでいるうちに、その味覚を学習し、感じる味がどんどん変わっていくからだ。
もちろん、味覚細胞の種類自体が増えるわけじゃない。
そもそも味覚細胞は種類が少ない。
味覚は舌だけで作られているわけではない。
味覚というのは、味覚細胞や嗅覚細胞で検知した信号、および、触覚、温感、それらと結びつけられたイメージや過去の記憶など、多様な情報を、脳内で統合して処理することで、発生しているのである。
たとえば、金属のスプーンで食べていたダルバートを、ネパール人のまねをして手で食べたら、はっきりと味が変わって驚いたことがある。
手で食べた方が美味しかったのだ。
おそらく、食べるときに口に触れるものの感触や温度が、脳内で生じる味覚を変質させるからだろう。
同じ原理で、食器が陶器か、プラスチックか、木かでも味が違ってきたりする。
そうやって何ヶ月もかけて丁寧に呑み比べをしているうちに、パイをこねるように味覚がこねられていく。
最初はクセがあって不味いと思っていたものが、そのクセを愛せるようになって美味しくなり、その美味しさに飽きてきてさほど美味しくなくなり、それをよく似た別のウィスキーのクセと比較することで、同じクセだと思っていたものが、実は違いがあることに気がつき、そのクセの良さが見直されてきて、別の角度からそのクセの良さを味わえるようになってきたりする。
さらに、それを単体で呑むと、そのクセが嫌な感じがしていたのに、チーズをつまみながら呑むと、そのクセを美味に感じたりする。
呑んだり食べたりする順序も大切で、果物を食べた後に良いウィスキーを呑んだら不味いと感じたり、ウィスキーを呑んだ直後にウィスキーを呑むと、味覚が変化して、味わいが変わったりする。
そうやって、不味かったものが旨くなり、旨かったものが不味くなり、を、らせん状に何サイクルも繰り返すうちに、味覚がどんどん複雑で繊細に発達していく。
新しい脳神経回路に通電され、新しい味覚回路を獲得し、その回路がバージョンアップされ、そうして獲得した回路同士が結合して、より高度な脳神経ネットワークが構築されていくことで、味覚が増毛していくのだ。
これは、道端の草花の観察も同じだ。
PictureThisなどのように、植物をカメラで撮影するとその植物に関する情報を表示してくれるアプリを使って身近な植物をこまめに調べる。
あるいは、植物の身も蓋もない生存・繁栄戦略や仕組みや分類学の本を読み込む。
そうやって、植物の複雑な世界に関する知識と経験が蓄積されていくと、単に道を歩くだけの経験が、極上の娯楽体験へと変貌していく。
もちろん、本もマンガも映画も同じだし、創作・研究などの趣味も同じだ。
むしろ、そういう読書・創作・研究などの方が、より深く、複雑に、この醸成が進んでいく。
これによって、数十年かけてさまざまな感受性が生え続け、草原になり、森林になり、茂りすぎてジャングルになって、やがてはサグラダ・ファミリアのように複雑怪奇でめんどくさい人になってしまったりするのである。
ただ、気になるのは、「実際には、中年になってから生えてきた感受性は、若いころの感受性よりも楽しさの絶対値が低いのではないか?」という点だ。
つまり、「中年になってから生えてきた毛は細くて短い」のではないか?という疑念がある。
たしかに、若いころの楽しさはヴィヴィッドで鮮烈だ。
芝生の上で友達と大はしゃぎして、転げまわって、笑って笑って笑いすぎて、よだれと涙が出た。
プール帰りの気怠い午後、駄菓子屋の前で友達と一緒に食べたアイスは、この上もなく美味かった。
放課後の科学クラブ、理科室で眺めていたプリズムの光は、ほんと、きれいで、きれいで、大好きで、最高で、いつまでもずっと見ていられた。
中学生の頃、相対性理論と量子力学を知った時の、あの驚異に満ち満ちた感覚。
授業中、隣の席の女の子との私語。笑顔の素敵な女の子で、もう、ほんとにかわいくて、かわいくて。その子との私語が、あまりにも楽しくて、授業どころじゃなかった。
それらに比べると、中年になってからの楽しみは、しょぼいのではないだろうか?
しかし、自分が気になってしょうがない哲学的テーマについて、何十年もかけて本や文献を読み込み続け、どこまでもどこまでも執拗に自問自答を続けた結果、ようやく、その問題の根幹と全体像が見え始めてきたときの、あの、なんとも言えない喜び、突き抜ける爽快感、腹の底からの納得感は、若いころには味わえなかった。複雑さ、深さ、高度さにおいて、若いころに味わった喜びを、はるかに超えている。
これは創造行為においても同じだ。何十年もかけて本・文献・論文を読み込み、徹底的な自問自答と試行錯誤を繰り返し、経験に経験を積み重ね、巨人の肩の上に乗ることで、ようやく創造できるものがある。そういう、複雑で高度なものを夢中で創っているときの喜び、それを創り上げたときの全身から湧き上がる喜びは、一部の早熟の天才を除けば、若いうちはなかなか得にくいものだ。
結局のところ、若いころの喜びと、中年になってからの喜びは、ベクトルの方向が違うだけで、絶対値はそれほど変わらないのではないだろうか。
なので、日ごろから感受性の種まきと育成を怠らなければ、中年になっても、ちゃんと増毛していくのではないだろうか。
また、我々が「中年になると感受性が衰える」と錯覚してしまうのは、損失回避バイアスという認知バイアスも原因の一つだろう。
この認知バイアスによって、人間は、失う痛みを、得る喜びよりも強く感じる。
だから、「若い頃の感受性が失われた痛み」を過大評価し、「中年になってから新たに感受性を得た喜び」を過小評価してしまうのである。
トータルでは圧倒的に黒字なのにもかかわらず、赤字だと錯覚してしまうのだ。
しかし、失われた若年性感受性をいつまでも未練がましく、くよくよと嘆いていても、それは戻ってこない。
我々は、青虫がさなぎに、さなぎが蝶に変態するように、中年に変態するからだ。
蝶になってしまってから「青虫だった頃のかわいい足を気に入ってたのに」と嘆いてもしかたがない。
それより、潔く気持ちを切り替えて、感受性の畑に種をまき、芽を育て、広々とした気持ちのいい草原と豊かな森を育て、素敵な中年に変態しよう。
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参考文献
※この記事は、文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、ご指摘・改良案・アイデア等を取り込んで書かれたものです。