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水上温泉のこと

いわれ・・・

時は永禄年間、1558年ごろ。

川辺に白煙が立ち上り、いで湯が利根川に流れ込むのを目の当たりにした、建明寺2代目和尚・海翁文寿和尚が発見したといわれている。

水上温泉が有名になったのは、若山牧水のみなかみ紀行。繁栄のきっかけは、昭和3年に上越線が水上駅まで開通したことが大きいといわれている。(上越線は昭和6年に全線開通)

みなかみホテルジュラクや水上館、源泉湯の宿松乃井など、みなかみ18湯を代表する大規模旅館をはじめ、こぢんまりとした老舗旅館まである。

温泉街には、ガラスのお店や美味しいピザ屋さん、水上温泉発祥の「餃子の雪松」の本店、クラフトビールのOKUTONEや湯酒屋「安兵衛」などなど、素敵なお店が数多くある。

水上温泉の泉質:カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉

■水上温泉郷開湯説話

前略…明治十年以前は湯客もほとんど無かったことがわかる。現在では水上温泉は全国に知れわたっているが、昔は「湯原の湯」と呼んだ。温泉街を奔る利根川の川底から湯が湧き出していたところからこの名称がつき、やがて村名となっていったものである。

だが、湯量の豊富な「湯原の湯」も、元和元年(1615年)の頃、城主の住む沼田城に「湯銭壱ヶ年ニツキ三百文ヅツ定納」とあることからして入湯税を徴収していたことは知れるが、おそらく村内及び隣村の村人たちが湯治に来ていた程度であった。むしろ、谷川や湯桧曽の湯のほうが知られていたようだ。

●水上温泉・湯原の湯
単に水上温泉といえば、湯原の湯のことをさしている。昔、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政は、西上州平井村光源寺の僧、秀翁竜樹和尚を伴い、越後の上杉謙信を頼って、平井城から越後へと逃げのびた。上杉憲政二九才の時である。一行は利根川の上流粟沢村まで来ると、洞窟に隠れた。現在憲政岩と呼ばれているのがそれである。

一説によると、秀翁和尚は清水越えの険しさを聞き、この地に一人とどまったという。その地で造って暮らした小庵が、湯原にある建明寺の起こりである。小庵も、3年目にして野火で焼けてしまい、天文二十二年の秋湯原村洗ノ平に建明寺を移したが、ついに弘治元年に和尚は亡くなってしまった。それ以後、この寺は古馬牧村玉泉寺九代、海翁和尚のの兼務となった。建明寺を再興したこの僧を、伝法開山海翁文寿和尚という。

湯原の湯は、この海翁文寿和尚が永禄年間に発見した。和尚は経文を小石に一字一石宛に書き込み、粘土と小石を混ぜ合わせ、独自の浴槽を発案して村人の便宜を図り、将来の湯原温泉発展を画したと言われている。病気療養が温泉利用しか手段のなかった当時、必ず薬師信仰や地蔵信仰と結びついている。海翁和尚の湯の発見以前は荊村(いばらむら)と呼ばれていた地域が、それ以降は湯原村と改められたとも言われている。

また、「水上館」には、「わらじの由来」として、次のような説話が伝えられている。‐-----四百年の昔、1人の旅僧がこの地にやって来た。僧は利根の川原に湯煙の立ち上るのを見て、石を重ね土を積み、三年近い歳月を費やして苦心の末に温泉のひきあげに成功した。当時、村の名主として旅僧に宿を貸していたのが水上館の祖先であった。八月のある朝、雨戸をあけると、一足のわらじが軒下の物干しに朝露に濡れてかかっており、それ以来旅僧の消息は絶えて聞くことはなかった。祖先は旅僧の徳を慕い、わらじをもって湯元の印とし、子孫に伝えている。家宝として伝えられたわらじは、百年ほどの前の火災で失われたという。
上州路・特集「新水上紀行 山と水とひかりの温泉郷」あきを社出版より抜粋引用


温泉薬師(年代不詳)


昭和初期の水上 (2)
昭和初期の水上温泉

古くから数多くの文人墨客が逗留した当地。行啓御用達の水上館の館内には、著名な方々の作品が随所に展示されている。

また、温泉街の中心には湯原温泉公園が整備されており、無料の足湯と手湯が楽しめる。

良く温まる湯につかったら、恋愛成就のパワースポットであり、合縁機縁の橋と言われる水上橋から渓谷を堪能し、温泉街へ繰り出そう。

素敵な出会いが...!


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