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【宮本武之輔】命がけで信濃川を治めた、信念とロマンの技術者~土木スーパースター列伝#19

こんにちは!

早稲田大学大学院修士1年の西川 貴章です。
このfrom DOBOKUの編集委員をつとめています。

僕が土木を意識したきっかけは太田道灌で、土木に惚れたきっかけは宮本武之輔でした。だから、ここで宮本武之輔を紹介できるのが本当に嬉しいです。

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僕なりに彼を一言で言い表すなら、「信念とロマンの技術者」です。その魅力を示す話を、「技術者」「文人」「教育者」という3つの視点から紹介します。

①倫理的な天才技術者としての宮本武之輔

あれは、僕が大学1年生の秋学期の、最初の授業でのことでした。
景観工学の佐々木葉先生の授業で、「民衆のために生きた土木技術者たち」という映画を見た際に、主人公の一人だったのが、宮本武之輔でした。

宮本武之輔は、新潟県にある大河津分水の可動堰の設計と施工の陣頭指揮を取りました。

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当時、新潟県信濃川下流域の洪水を防ぐために大河津分水を建設、1922年に通水。ところが、わずか5年後の1927年に、水量を調節する自在堰が陥没した。当時は国家予算の1/3近くを土木事業に使っていた時代である。「税金泥棒!」とマスコミや国民から大バッシングを食らった。内務省は威信回復をかけ、宮本武之輔を信濃川補修事務所主任として派遣し、工事が始まった。

宮本武之輔は、寝る間も惜しんで設計図面を描き、猛スピードで可動堰の建設は進んでいた。
そんな中…

1930(昭和5)年 長野県を襲った集中豪雨。
みるみる水位が上がり、「上流で大破堤の危険迫る」と情報を受けた。
ここで、本流の水位を下げるために分水の仮締切を切れば、工事現場に濁流が流れ込んでせっかく作った堰が破壊され、工事は大きく遅れる。宮本武之輔も炎上して世間で叩かれ、出世の道は閉ざされるだろう。辞表も覚悟していた。
でも、もし仮締切を切らなければ、近隣住民が洪水で死ぬ。

仮締切を切れ!

その決断は、多くの近隣住民を洪水の危機から救った。
それでも、脇川堤防は破堤した。水田は、被害を受けた。

翌朝、案の定、悲惨な現場。怒り狂う上流の農民。鍬や鋤を持ち、いつ暴動に発展してもおかしくない勢いで、工事事務所には怒号が飛び交った。

部下の大塩技師は、警察を呼ぼうとした。宮本武之輔は、「そんなことをしても火に油を注ぐだけだ。私服警官1人たりとも呼んではいけない。自分が1人で今すぐ応対する」と丸腰で農民たちの前に出ていった。

今回の水害、たとえ原因が何であれ、水害復旧を行うのは私達内務省の役割です。私達はどこへでも行って、何でもする覚悟です。手抜きするつもりなどありません。
皆さんといつでもどこでも話し合う用意をしています。逃げたりなぞしません。

大河津分水の修復は来年春には必ず完成させます。
私は皆さんのような農家の方々、働く人が好きです。そんな私が、どうして水害の犠牲者として見殺しになどするでしょうか。
切れた堤防は今日から直ちに修復にかかります。ご安心ください。またどんな苦情でも言ってきてください。

農民たちは「若いのに、役人ぶらないのが偉い」と納得して帰っていった。
青ざめる部下たちに、宮本武之輔は語った。

われわれ土木屋は、民衆のふところに飛び込むことができなければならない。「民を信じ、民を愛す。」これが私の信条だよ。大河津分水自在堰の事故責任は内務省にある、農民にはない。
私は、殴られることを覚悟して、ここに立ったのだ。

このエピソードに惚れたんですね。授業中に、涙で前が見えないくらい泣いた記憶があります。これほどロマンチックな技術者が他にいたでしょうか。

その後、可動堰は爆速で工事を進め、宣言通りに翌春(1931年)完成。
この堰は、70年近くたった現在も現役で活躍しています。

上司の青山士に「私が同じ立場でも同じ選択をしただろう」と全力で養護してもらえた宮本武之輔は、特に失脚したりお咎めを受けることなく1937年 東京帝国大学教授(河川工学)を兼任しつつ、内務省で出世し、1941年には企画院次長に就任したわけですが、ここまで上り詰めたのは、後にも先にも宮本武之輔ただ一人。
もっとも、4月に就任して12月に肺炎で亡くなってしまいます。
49歳でした。
相当頑張ったんだろうな~という感じですよね。

そんな宮本武之輔を支えたのは、どんな信念だったのでしょうか。

②文人としての宮本武之輔

筆まめで、たくさんの著書に加え、中学生の頃から膨大な日記を残している宮本武之輔。かなり熱心なファンの僕でも到底読みきれないほどです。芥川龍之介が高校同期だったそうなので、さぞ刺激も大きかったでしょうね。

彼が法学部に行くか土木工学に行くかでとても悩んだのは、僕が宮本武之輔を他人事とは思えないポイントの一つです。というのも、僕も「早稲田の土木」と「上智の法学部」に受かって、土木を選んできた経緯があるからです。

「要するに宮本は国家杜会を動かす人になりたかった。それには東大の法学部へ行くか土木工学科へ行くか。法学部へ行くというのはよくわかりますが、さもなくば土木工学科へ行くというのが一味違うところだった。実際に仕事をして直接民衆のために役立つことこそ生き甲斐であるというので土木工学科へ行くわけです。」(『民衆のために生きた土木技術者たち』)

彼の言葉からは本当に示唆が大きい。「信念を言葉にする力」も、宮本武之輔を際立った技術者にしていると感じます。

たとえば、宮本武之輔が20歳のころの日記にこう記されています。(古い助詞や動詞は僕が現代風に訳してみた。)

「予は土木をやろう。…学んでいる技術を器械的な技術そのものとして働かせるよりは、これによって涵養されている頭脳をもって、今少し血色ある事業…対有機的な事業を、画策したい。社会経済上、共同政策上の根底から経政的に働きたい。
予は、いわゆる成功を願わない。高閣に住み、高価な自動車を走らせることを願うのではない。…わが信ずるところを行えば、そのことで世人から笑われ、罵られ、身に粗服を被り口に粗食を食らうとも、自らこれを成功として靖んじよう。」

こうした信念を持って生きた結果として、あの苛烈な生き様があった。
僕も同じ思いを持つ後輩として、痛いほど感じます。

そして、これは晩年の随筆の中の言葉。

「すべて信念は自覚から生まれ、自覚は思索から養われる。
思索のない人生は一種の牢獄である」(宮本武之輔『技術者の道』)

自覚、ここでの意味はアイデンティティや自己効力感に近いでしょうか。自分には大きな可能性があるんだという自覚、そこから自分以外の誰か(即ち社会)の命運に対して責任観念や信念を持っていれば、どんな災難でもどんとこい、やってやるぞ、という心がけが生まれてくるわけです。

しかし、その自覚も、深遠な思索あってこそ。宮本武之輔は日記でよくトルストイの「Stop and think!(立ち止まって考えよ!)」をよく引用していたようです。何のために立ち止まって思索するのか?それは、よく観察・認識し、そこから学んで成長し、新たなひらめきを生んだり、自分にとって大切な価値観や自分が本当にやりたかったことに気付いたりするためです。だから、濃密な生を生きるには、思索の時間はかけがえのないものです。

宮本武之輔は10代から膨大な思索を積み、20歳の時点で既にあの信念を持っていた…その思索たるや、計り知れないものがあります。

③教育者としての宮本武之輔

東京帝国大で教鞭を取っていた宮本武之輔。

教えていた科目は治水工学ですが、その黒板では工学のみならず、政治、西洋哲学、化学など多彩な学問が語られました。

「君たち学生は工学の知識を吸収しただけでは知識人ではないし、実社会に出ても役に立たない。人間として未熟である。政治学、法律学、経済学、文学、西洋哲学、歴史学、物理学、化学、なんでも貪欲に学ぶのだ。若いうちに学んで鍛えるのだ」

宮本武之輔が語ったのは教養主義、つまり学問を通じた人格陶冶です。そもそも教育は何のためにあるかと考えると、学生が将来実社会で誰かの役に立つためにあります。そのためには、ただ専門分野を修めるだけでなく、その頭脳を涵養し、信念を育てていく必要があります。もし「学生が幸せになるため」なら出欠管理も試験も必要ありません。実社会で役に立った結果として、精神的充足や感謝の言葉を受け取って幸せになるのは、教育の効果であっても目的ではないのです。

技術者は、その技術力によって、社会を変えるに十分な影響力があります。でも、技術は手段、道具です。道具の影響力が大きければ大きいほど、「どう使うか」が重要です。あの原子力エネルギーも、核兵器として使えば惨禍ですよね。

技術がどんな効果を持つかは、ひとえに技術を使う人間の側にかかっています。だから、技術者こそ、なんでも貪欲に学び、人間として成熟しなければなりません。社会のため、民衆のため、弱者のため。

いまこそ宮本ismを

宮本武之輔が残してくれた最大遺物は何でしょうか。
大河津分水でしょうか。
技術者運動でしょうか。
偉大な著作物でしょうか。

やはり最大のものは、宮本武之輔がこれだけ果敢に生を全うしたという、「生き様」そのものではないかと思います。

もちろん宮本武之輔だって完璧な聖人君子からはほど遠く、まして信仰の対象にしたいわけではありません。しかし、大切なことは、「信念とロマンの技術者」宮本武之輔の生き様から、後に生きる僕らが何を学び、どう生きるか。

彼ならどんなアドバイスをくれるでしょうか。
19歳の頃の日記から引用して締めたいと思います。
「真摯なる実行家たれ。敬虔なる実行家たれ。
而して、誠実をもって、技量に遵する実行家たれ!」

西川貴章
早稲田大学修士1年。Doboku Lab代表。
最近は海岸侵食の研究で、14mの水路に大量の砂を入れて海岸を模して、毎日砂遊びに明け暮れる傍ら、休日には自然の中へ、秩父の山や葉山の海に遠足に出ています。