【可知貫一】画期的!水争いをなくした農業水利への情熱〜土木スーパースター列伝 #25
異常気象とお米不足が話題になった2024年の夏でしたが、農業、特にお米に欠かせない水を如何にうまく扱うかには農業土木、農業水利がとても大切。
食料増産が喫緊の課題であった大正・昭和時代において、耕地の開拓や水源の確保、効率的な用水・排水など、総合的な水利の推進が必要とされました。貴重な水を公平に分配するにはどうすればよいか。それは水争いを防ぐための重要な課題でもありました。
今回みなさんにご紹介したいのは、この農業水利の上から下までを現場と理論で大きく発展させた可知貫一(かち かんいち)です。
こんにちは。円筒分水かわうそ探検隊の稲田怜子と伊藤嘉章と申します。
土木は素人ですが円筒分水と農業土木が大好きで、国内の円筒分水240基ほどの内9割を訪問し、その地の農業と歴史や可知による円筒分水の発明と農業水利学が如何に大事であったかを学んでいます。撮影した円筒分水の写真展をしたりSNSでその魅力を発信したり、円筒分水保全の定期的ボランティアなども数か所で行っています。
さて可知貫一の生い立ちです。
1885(明治18)年に岐阜県旧阿木村(現中津川市)に生まれ、岐阜中、旧制六高から旧東京帝国大学農科大学農学科(現東京大学)に進み農業土木を学んで農学博士号を授与されます。東京高等農林学校(現東京農工大)の講師を1年務めた後、農業土木技術者となり、奏任官待遇技師(県では知事、内務部長らに次ぐ高等官)として1911(明治44)年に故郷の岐阜に赴任しました。
赴任後は終生の信条「足を運び、目で確かめる」の通り、県内を駆け回りその学識と技術を駆使してエネルギッシュな活躍を始めます。
水争いをなくせ!円筒分水の発明
日本初の重力式コンクリートダムの布引五本松ダムがようやく出来たような時代、河川やため池からの水は本当に貴重で、渇水時には農業用水確保のための「水争い」が全国各地で勃発していました。そんな時代の中、可知は水を公平に分配する「円筒分水工」という画期的な発明を行ったのです!1914(大正3)年の事。発明時は「放射式分水装置」という名称でした。
水路を流れる水を3等分に分配するとき、川の流れに敷居を立てて3分割すると水流の速い真ん中に多くの水が流れてしまい、また下流で多くの水を使った場合そこに多くの水が流れて不公平になります。その為夜中に勝手に仕切りの位置を変えたり新たな分水路を作ったりなどで争いが起こっていました。
そこで、可知は流れる水を一旦低い位置に落とし「逆サイフォンの原理」で円筒状の設備の中心から吹き上がらせました。すると、重力により円筒から360度方向に同じ流速で水が流れます。その水流を決められた比率の孔(あな)の数で分け「目に見える」公平な分水を行う仕組みを発明しました。(現在は(孔方式/オリフィス式)から円筒から溢れさせた上で一定の比率で仕切る方式(溢流式)が多くなっています。)
この画期的な発明は学会誌に論文としても発表され(「灌漑計畫と放射式分水裝置に就て」農業土木学会(昭和5年))、1928(昭和3)年に完成した長野県の西天竜幹線水路で起こった水争いの解決に円筒分水が採用された他(現在30基強が稼働)、1931(昭和6)年に宮城の疣岩円筒分水工、1938(昭和13)年に秋田の関田円形分水工など次々と全国に広まりました。このダイナミックな動き!小さな構築物ですがいかに人々の心を捉えたか分かります。
時に死傷者まで出した水争いを解決したこの日本固有の発明には可知の農業とそれに携わる農民や地元への強い思いを感じます。この後、可知は岐阜で保古の湖の立案、落合用水、中部用水、付知川用水(東濃)、木曽・長良・揖斐三川(西濃)の排水を近代工法で解決するなど水源や河川整備にも大活躍します。若きスーパースターですね。
徹底した現場主義!八郎潟土地利用計画
1918(大正7)年に東京に戻った可知は農商務省主任技師兼東京帝大講師として働きます。同年に起こった米騒動に端を発し「開墾助成法」が制定され、各地の農地開拓が推進される事となった時代です。この中で琵琶湖に次ぐ広大な湖である秋田の八郎潟干拓の計画策定のため白羽の矢が立ったのが可知でした。日本の農業土木の創始者とされる上野栄三郎(東京帝国大学教授、忠犬ハチ公の飼い主としても有名)に薫陶を受け多くの現場で農業の水利を極めて来た可知に大いに期待したことが想像されます。かっこいいです。この時可知は37歳。
1922(大正11)年から調査に着手し翌年に「八郎潟土地利用計画」(通称可知案)が完成。初の国営干拓構想としてまとめられました。しかし、同年の関東大震災によりこの大プロジェクトは実現されず、再び八郎潟干拓の計画が動き出すのは1941(昭和16)年となりました。可知の計画書は八郎潟の大潟村干拓博物館で見る事ができます。
しかし、計画のとん挫の一方、可知は休む間もなく十和田湖からの用水の調整による三本木原開発案作成や愛知の豊川用水の「渥美八名二郡大規模開墾地利用計画」などにも取り組みます。国外においても、ホノルルでの世界農業会議出席してアメリカ本土のTVA計画を視察するなど、国内外で精力的に働きます。
地元への気遣いも忘れない!円熟の巨椋池干拓事業
昭和に入り食糧問題がひっ迫して来た政府は全国の干拓・開墾事業に予算を計上し、「福島県矢吹原」、「千葉県印旛沼」、「青森県三本木原」、「巨椋池」が調査対象となりました。可知は京都の巨椋池を調査し「京都府巨椋池干拓と其の沿岸耕地改良事業」をまとめます。
巨椋池は京都盆地の最も低いところに位置し、宇治川・桂川・木津川が合流する場所に生まれた巨大な湖です。この干拓・改良事業は、排水先の宇治川より低い農地の用水と排水、排水機の設置と経済的運用コストの算出、漁業補償問題など困難を克服するための広範囲な検討が必要でした。
可知は1933(昭和8)年に全国初の国営開墾事業となった巨椋池干拓事業の初代所長に就任し事業を軌道に乗せた1936年まで努めました。その日々状況が変わる現場に密着した仕事ぶりは作業日誌として残されており、几帳面な字で書かれた4年間の記録に圧倒されます。データの記録や技術面の記載から予算管理、国、県、工事関係者との調整から干拓でなくなる漁業の従事者への気遣いまで可知のスーパーマンぶりが記された日誌は巨椋池排水機場の「巨椋池まるごと格納庫」に展示されています。着実に様々な問題を解決していった働きぶりに魅了されます。
視点は地下水にまで~あくなき農業水利深化への欲求
1936(昭和11)年に京都帝国大学教授に転じた可知は、農業土木の教育に力を注ぎ、「農業水利学」(1948(昭和23)年)をまとめると共に、「那須野ヶ原水利開発計画」を立案する中で地下水の重要性に着目し「地下水強化と農業水利」も著しています(改訂版1948(昭和23)年)。近年、農業での水の循環や環境の視点、コンクリート等で覆われた市街地の表面から雨水の浸透が起こりにくい現象など、地下水涵養が注目される事も多いですが、可知の80年近く前の視点に驚かされます。
長年の功績により正三位勲三等にも叙せられ、1956(昭和31)年自宅にて71才で逝去されました。このような多くの業績を残した可知の原点のような全国の円筒分水を回りながら、農業土木や水利の事を引き続き楽しんでいきたいと思っています。