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【坂の話】坂好きの極みは、自分の名前の坂が残ること!?
都心を走るJR山手線目黒駅に降り立つと、目黒川に下る坂道がいくつもあります。その中で「権之助坂」と呼ばれる比較的なだらかな坂がありまして、その悲しき話を交えながら、"坂"の意外な側面をお伝えしたいと思います。
こんにちは。副偏集長の外山田洋です。土木は門外漢なんですが、坂好きなんです。ついでにランナーでもあります。坂好きで有名なタモリさんが副会長をされている日本坂道学会なるものがありますが、僭越ながら最大限の敬意を払う形で日本坂ラン学会を設立し、副会長もしております。
悲しき逸話が残る権之助坂
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さて、権之助坂のお話を。
江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいました。厳しい年貢の取り立てに苦しんでいた村民を見て、権之助は取り立てをゆるめてもらおうと幕府に訴え出ます。
ところが、この訴え出る行為が罪になり、処刑されてしまうことに。当時、幕府に意見することはご法度だったんでしょうね。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、いよいよ刑に処される日がきます。
目黒区のHPにはこう記されています。
馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていた坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。
村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
権之助坂の逸話は、別の話もあります。
権之助坂の近くに「行人坂」と呼ばれる坂があります。結婚式場などで知られる目黒雅叙園の横にあり、今でも残るこの坂はあまりに急坂で、城内(今で言う山手線の内側)に向かう村民にとって難坂として有名でした。
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村人のことを思う優しき菅沼権之助は、急勾配の行人坂に変わる、緩やかな新しい坂を作ってしまいます。しばらくの間「新坂」と呼ばれていたものの、村に尽くした功績をたたえて村人らはその坂を「権之助坂」と呼ぶようになったと言われる説です。
現代にも息づく権之助の精神
菅沼権之助から数百年経った現代、子供達のために自分の土地を切り開き、坂道を作った地主さんがいます。奥津さんと呼ばれるそうです。
今でも豊な里山を残すこの地の子供達は、大きく回り道をして学校に通っていたそうです。その姿を見ていた奥津さんは「生徒たちの負担を減らしたい」との願いから、自分の土地を切り開き、坂道を作ってしまいました。
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究極の名の残し方
権之助も奥津さんも共通するのは、その坂に自分の名前を自分で命名したのではなく、周囲の人々からリスペクトされる形で命名された点で、最も健全な正しい命名プロセスですし、自分のためではなく、困っている人のために尽力した点。これは、土木の真髄かもしれません。
タモリさんはご著書の中で権之助のことをこう称しています。「死してなお、坂に名を残した男」。坂好きとしての究極は、自分の名前がついた坂が残ることかもしれません。タモリ坂がいつの日かできたらいいな(笑)。
日本には無数の坂があります。皆さんは、普段何気なく登り降りしている坂の名前はわかりますか? 意外と坂には名前がついているものです。由来がきっとあります。気になったら調べてみると新しい発見があるかもしれません。
文責:副偏集長 外山田洋
フリーの編集者 兼 ライター/デザイン制作会社のプロデューサー/ラジオパーソナリティ・MC などと、落ち着きのない仕事感をごちゃっとカバンに詰めて、雨のちハレの精神で生きる人です。趣味はトレイルランニングと農業。土木は門外漢。