【物部長穂<後編>】前例のない巨視的な発想の多目的ダム論~土木スーパースター列伝 #16
こんにちは。(一財)日本ダム協会の中野朱美です。水理学・土木耐震学の権威でもある物部長穂のダムの設計や河川開発についてお伝えする後編です。前編はこちらです。
大の甘党は、10年飛ばしの大抜擢
長穂の凄さは、単に研究好きな学者肌の人間ではなく、極めて実務能力の高い、仕事の出来るスーパー技師だった点です。
内務省勤務の傍ら、東京帝国大学で「河川工学」講座を担当し教鞭をとって、大正15(1926)年5月には、38歳の若さで内務省の土木試験所の第3代目の所長に就任。役所における人事としては10年飛ばしの大抜擢だったと言われていますが、30代で東大の助教、教授となった天才技師ですから、当然と言えば当然の任命なのでしょう。
そんな長穂は、コーヒーと菓子が好きという大の甘党で、酒席には一切顔を出さなかったそうです。精力的な仕事振りからはもっと豪快な人かと思いましたが、几帳面に細かな文字を書くという話の通り、とても繊細な方だったのですね(笑)。
天才級の河川学者が考えた前例のない「多目的ダム論」はスマホ!?
大正末期、その後のダムのあり方に大きく影響を与えた「多目的ダム論」が長穂の最大の功績です。「多目的ダム論」というと難しそうに聞こえますが、ダムをより便利に使うために、一貫した考えのもとに造るということを提唱しました。例えば、電話が登場する時代に、今のスマホのような多機能で、電話をもっと活かそうという超革新的な提言だったのです。時代を何歩も先に行く感じです。
明治から大正に時代が変わる頃、日本にはガス灯から電灯に、電報から電話にといった最新技術が普及し始め、一気に時代は進み、人々の生活に大変革が訪れます。土木の世界も同様で、コンクリートとともに西洋のダム技術が入ってきました。
当時、コンクリートはとても高価で、そのため鉄筋コンクリート製の擁壁で水圧を支えるバットレスダムという技術も生まれています。長穂はこの形式のダム設計も実際に行っています。
また、河川政策やダム事業には、一貫した理論が確立されておらず、河川ごとに利用目的に沿ったダムが計画されているに過ぎませんでした。例えば、水害が多い河川には、洪水調節・農地防災といった目的に特化した「治水ダム」。人口集積地の河川には飲料水、工業用水、農業用水等に利用する「利水ダム」。あるいは水力発電のための「発電ダム」といった具合です。
そんな中、長穂は、総合的な河川政策の根本的な考え方として、ダム技術を活用しようという「多目的ダム論」を唱えたのです。これは当時にはなかった巨視的な発想で、革新的なものでした。
これぞ、天才級の河川学者!
日本の河川の特徴は、流域面積の広さに対して、流れは急峻で河口までの距離が短く、山間部に降った雨は短時間で海まで流れ出てしまいます。大雨が降れば洪水に、降らなければ渇水です。
そんな水が豊富な日本の気候風土を活かし、夏と冬で貯水容積を使い分けることにより、発電はもとより、飲用水、灌漑、工業用水と多目的に利用出来ると考え、前例にとらわれない発想で「水系一貫の河川管理計画」として理論を構築。これが現代のダム理論の根幹となっているのです。
さらに、より高度な理論構築のために、日本初の水理試験所を開設して、河川に対する基本政策としてダムを使って水資源の活用をはかるという、今では当たり前の考え方を理論と実務で成し遂げます。
同時に、ダム建設においては、貯水池埋没対策として砂防工事が必須であることや耐震設計、施工が重要であること等にも触れていて、ほぼ今のダム設計の基本理論となっています。これが長穂の天才級の河川学者たる所以です。
この多目的ダム論の詳しい中身については、川村公一著「物部長穂-土木工学界の巨星」(無明舎出版)をご覧ください。
地震に強いダム!日本の“ハイダム時代”を牽引
治水と利水を総合的に包含する「多目的ダム論」はその後の日本の近代化に大きく貢献していきます。特に地震などを考慮した新しい算定式論文は、重力式コンクリートダムの耐震設計に大きく寄与しています。この時期に建設された恩原ダム、丸沼ダムは長穂の理論により設計されたもので、土木遺産に指定されています。
ダムの設計に際し、昭和9(1934)年に、長穂は、地震に対しても安全なダム建設を可能とする「重力式コンクリートダムの耐震設計理論」を確立します。これ以降、日本はハイダムの時代に入っていくことになります。
長穂をもっと知りたくなったら「物部長穂記念館」へ
この記念館は1995年に、長穂の誕生した秋田県大仙市協和にある唐松神社に隣接する土地に建てられていますが、私が物部長穂記念館を訪れたのは、現在施工中の成瀬ダムへ現地視察と取材に行った帰路でした。
閉館時間ギリギリたったこともあり、館内を見ることは叶いませんでしたが、等身大のブロンズ像と記念撮影をし、資料だけでもと思い聞いてみると、記念館はパンフレットを作成していないため、大仙市役所協和支所を紹介して頂き資料を頂きました。記念館には、長穂の著書や土木工学、水理学の蔵書の展示、秋田県のダムを紹介するコーナーがあり、長穂の理論を生かした重力式コンクリートダムの協和ダムの紹介もあるそうです。
彗星のように駆け抜けた生涯
長穂は、昭和11(1936)年、宮本武之輔教授に「河川工学」の講座を託し、東京帝国大学教授を勇退するとともに内務省も退職、土木試験所所長の座を藤井真透氏に譲り、第一線から退きます。
その後、昭和16(1941)年9月9日、持病の悪化により享年53歳にて東京都小金井市で永眠します。日本の土木界の巨星は、時を超えて長く尾を引く巨大彗星のような生涯でした。長穂は、土木学会誌に14本、土木建築雑誌に6本、水利と土木誌に43本の論文を発表するとともに東京帝国大学において、長きにわたり学生の指導に当たり学生を指導。数多くの土木技術者を育成しました。
長穂の最大の功績は、日本の土木界にそれまで存在しなかった水理学を学問として体系付けた他、先駆的な耐震構造理論を構築したことです。また、彼の唱えた「多目的ダム論」は現在の河川総合開発事業の治水・利水政策の根本理論として今に活かされています。
―まとめー
パソコンもインターネットも存在しない時代に、すごい情熱で研究に取り組んだ長穂が、令和の時代に生きていたとしたら、想像をするだけで気持ちが高まります。IoTを駆使する自動化施工の状況やドローン、AIの活用による土砂崩れの監視や予防等、現代の土木の現場を見たとしたら、どんな新しい課題を発見し、どういったアプローチで問題解決に結びつけるのでしょうか。長穂をはじめ土木偉人たちが居たからこそ、今の日本の発展があるのだと、改めて感じることが出来ました。
最後に、貴重な資料をご提供頂きました大仙市アーカイブズの皆様に心より御礼申し上げます。