【物部長穂<前編>】「水理学」「土木耐震学」を作った日本土木界の巨星〜土木スーパースター列伝 #16
こんにちは。(一財)日本ダム協会の中野朱美と申します。普段は、機関誌『月刊ダム日本』で、私以上にダム愛のある方々にお話を伺う「ダムインタビュ-」を担当しています。
この「土木スーパースター列伝」もvol.15まで展開されてきていますが、私が今回担当するのは物部長穂(もののべ ながほ)です。日本土木界の巨星と称されているスーパー偉人ですが、一般の人には馴染みがないかもしれません。そんな物部長穂を前編と後編に分け、今回の前編では2大名著とされる「水理学」「土木耐震学」を引き合いに、長穂の功績を紐解いてみたいと思います。
卒論で設計した鉄橋を自ら造る!華麗なキャリアのスタート
長穂は、明治、大正、昭和の三代に渡って土木工学の分野で活躍し、日本の河川政策の礎を築き、多目的ダム理論を提唱、現代の耐震建築の基本理論を確立しました。2大名著「水理学」と「土木耐震学」は、大学で土木を学んだ技術者はほぼ全員が彼の論文を基にした教科書で学ぶため、日本土木界の巨星と呼ばれているわけです。
兄弟姉妹は11人!生家は、由緒ある神社
長穂は、明治21(1888)年6月、秋田県大仙市協和にある唐松神社の宮司の家の次男として生まれました。この神社は、西暦200年頃に神功皇后が創建したのが始まりとされる由緒ある神社です。こんな所がすでに偉人の香りがします。
兄弟姉妹はとても多くて11人。小さい頃から学業優秀で、地元の中学から仙台にある旧制第二高等学校に進学し、東京帝国大学(現在の東大)に入ります。そして、卒業論文としてまとめ上げた「信濃川鉄橋計画」で政府鉄道院の技師に採用され、そのまま設計に当たることになります。
社会人キャリアのスタートが自分で設計した鉄橋の建設で始まるというのは、どれ程優れた卒論だったのでしょう。私には全く想像が出来ません。
その後鉄道院で実務に励みますが、程なく内務省の技師に抜擢。同時に東京帝国大学理学部に再入学して理論物理学を学び直し、さらに土木工学科の助教授をも兼務します。まだ20代でこの優秀さです。
後にドイツ・フランス・イギリス・アメリカに視察に行き、河川改修工事やダム建設等、最新の土木技術を学んで帰国。論文にまとめ、第1回土木学会賞を受賞することになります。土木技師としての実務をこなしながら大学で研究し論文を発表することをさらりとやってのけている。さすが巨星です!
名著「水理学」:お手本が存在しない分野に教科書を創る偉業
皆さんは「水理学」と聞いて何が思い浮かびますか? 誰もが「?」となるのではないでしょうか。水理学とは、水の流れに関する力学、主として河川、運河、水路等における水の流れ、圧力、波動などを研究する学問で、水理学の原点は古く、メソポタミア、古代エジプト時代にまで遡ります。
アルキメデスの浮力の原理、ローマ水道でのサイフォンの応用、レオナルド・ダ・ヴィンチによる「連続の定理」の発見や静水力学という考え方、力学を体系化したニュートン、そして、ベルヌーイとオイラーによって現代の水理学の基礎が築かれる流体力学の系譜をたどります。
一方の日本国内では、長穂が水に関わる内外の工学理論(数々の書籍、論文集)をまとめあげ、「水理学」を書き上げるまでは、体系だった学問領域のお手本となる教科書は存在していませんでした。
5mmの方眼紙に抜き書きする
長穂は、海外の論文集はもとよりダムの施工史、事故の調査報告書等にも目を通し、世界中の文献を読んで情報を集め、誰も考えないことを研究します。そして、気になる文章は5mmの方眼紙に几帳面な文字で抜き書きしていきます。それが彼の研究スタイルです。
今のように、パソコンとインターネットで何でも調べることが出来る時代ではない全てアナログな時代にまとめていることからも、長穂の偉大さには畏敬の念すら感じます。
雨が川にどれくらい流れるか公式を作る
英語のHydraulicsを訳して、水理学と名付けたのも長穂で、物部式と名付けられた公式があります。山や平野にどの程度の強さで雨が降ると、川にどのくらいの水が流れてくるのかを計算する数式で、今でも河川改修の際に用いられています。
この式1つで天才的な技師だったか。今の時代に生きていたなら、どんな研究成果を出せるのだろうかと興味が湧きますね。
名著「土木耐震学」:関東大震災後、耐震設計理論に大革命をもたらす
日本は災害の多い国です。特に地震による被害は大きかったと思われます。しかし被災するたびに技術革新をはかり新しい基準にアップデートさせてきた歴史があります。長穂は35歳の時、人生を変える大災害に遭遇します。大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災です。
この時、震災被害の調査に当たった長穂は、翌年に「構造物の振動 殊に其耐震性の研究」と題する700ページにもおよぶ大論文を発表します。この論文こそ、それまでの耐震設計の概念を覆す画期的なものでした。
剛か柔か?地震に対して強い建物とは?
それまで、日本では地震で建物が倒壊しないように剛性を高めることを耐震設計の基本としていたのに対し、長穂は、建物や構造物を弾性体として扱い、高層建築物は柔構造とすれば地震に対して粘り強く壊れない建物になるという真逆の理論を提唱します。
この「高層ビルの構造は柔構造にすべきだ」という考え方は、論文発表から40年以上経て、日本最初の超高層ビル「霞が関ビル」の設計に受け継がれていくことになります。そして、この論文は従来の耐震設計理論に大転換をもたらす斬新な理論と高く評価され、大正14(1925)年の帝国学士院恩賜賞の受賞につながり、昭和8(1933)年に修正版として「土木耐震学」を出版することになります。
一人三役!二大名著は、どのようにして生まれたのか?
長穂の学生時代の勉強法は独特でした。夕食を食べた後、2~3時間の仮眠をとり、午後11時過ぎに起きて、明け方5時頃まで勉強するというものです。社会人になっても同じスタイルで研究を続け、近所の陸軍の兵舎から起床ラッパが聞こえて来てから寝て、その当時席のあった土木試験所の始業時間に出勤するという生活をしていたそうです。
長穂の最大の功績と言われる2大論文「水理学」と「土木耐震学」が書籍として刊行される時のエピソードがあります。
学生でも買えるようにと定価を安くするように出版社に求めますが、出版社の強硬な反対に合い、揉めたそうです。結局安めの定価で発売され、後に大学の教科書として長く使われるようになりました。
長穂は、この時代、内務省の土木技師、東大の教授、土木試験所の所長と一人三役で活躍しています。もし私が長穂の仕事仲間だったら、ちゃんとやっていける自信はありません(笑)。
常識にとらわれず、自分のスタイルを貫き通す強固な意志、燃えるような情熱。だからこそ、それまで日本になかった「水理学」という学問を体系化することが出来、緻密な実地調査のもと「土木耐震学」をまとめることが出来たのでしょう。
―まとめー
優秀な人がこんなにも一生懸命に努力を重ねられてしまうと、凡人には成す術がありません(笑)。「土木偉人かるた」に登場する明治生まれの土木技師たちは、お手本がない時代だからこそ、自分がやらなければという使命感なのでしょうか。彼らのおかげで日本のインフラは、その重要性が早くから理解され、政策化されて今の社会が成り立っているのだということを実感します。
次回「後編」は、ダム目線で物部長穂を探ってみたいと思います。