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【“長州ファイブ”井上勝】鉄道の父の豪快伝説〜土木スーパースター列伝 #08

小岩井農場(まきば園だより)

(小岩井農場HPより)

コンビニやスーパー、自販機でよく目にする、牧場のイラストが目印の「小岩井」ブランドのカフェオレやジュース、多くの皆さんが、目にされたり口にされたりしたことがあると思います。でも、その「小岩井」の名前が、土木偉人に由来することをご存知でしたでしょうか・・・?

小岩井農場を創業したその人こそ、今日ご紹介する山口県萩市出身の土木技術者、「鉄道の父」と呼ばれる井上勝(いのうえまさる)です。

21_絵札全体

こんにちは。井上勝の出身地、山口県にあります山口大学の鈴木春菜と申します。普段は、交通計画を専門として研究・教育活動に携わっている私が、10月14日「鉄道の日」にちなんで、井上勝の魅力をご紹介したいと思います。


“長州ファイブ”井上勝のプロフィール

生家

井上勝生家(山口県萩市)  

勝は長州藩士の三男として生まれました。藩校明倫館で学び、長崎に赴任していた父の影響もあって早くから日本の将来を案じ、洋学に傾倒していたようです。ちなみに、長州と言えば吉田松陰が主宰した松下村塾が有名ですが、松下村塾は明倫館で学ぶことができなかった下級武士が対象とされていたため勝は通っておらず、熱心な尊王攘夷派ではありませんでした。

洋学を求めて17歳で函館に渡り、さらに留学への想いを募らせます。そして、志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)らとともに、5人で英国に密航します。勝は、かの有名な「長州ファイブ」のひとりなのです。

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長州ファイブ石碑(山口大学内)

鎖国の国禁を犯して見つかれば死罪、という苛酷な状況で渡航し、約5年間鉱山技術・鉄道技術を学んで帰国します。20歳の時でした。帰国後は28歳にして鉱山頭兼鉄道頭に任命されます。語学力と英国で身につけた高い鉱山・鉄道技術を有する技術者として、全国の鉄道敷設に尽力します。


豪快伝説その1)長期的視野を持ったブレない意志

井上勝の魅力は国家公共のために尽力しようとする意志と行動力です。土木偉人の多くがそうであるように、勝も国と民のことを想い、常に長期的視野をもって行動していました。とりわけ、日本人による鉄道敷設が重要だと考え、鉄道技術者育成に尽力します。

「人件費が高く、言葉と文化の壁もある外国人技術者に頼っていては日本の鉄道敷設が遅延する」との強い懸念を抱いていた勝は、新橋-横浜に日本で初めての鉄道が開業した5年後には養成所を設立し、その3年後には逢坂山トンネルを含めた京都~大津間の鉄道工事を日本人のみで完遂します。


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旧逢坂山隧道東口(Wikipediaより)

他にも、外貨流出を防ぐため国産の汽車製造会社を設立したり(後に川崎重工業に吸収合併されて消滅)、山間部の発展のため東京-京都間は当初中山道ルートで着工したり、長期の効率的な鉄道運営のため私鉄を政府によって買収すべきという提言をして国有化への議論を巻き起こすなど、短期的な営業利益よりも日本の将来の発展を考えていたことが分かります。

強い意志と、高くブレない志を持ち、志を同じくする仲間をつくり、必要であれば相手が上司であろうが大臣であろうがゴリゴリと主張をする人物だったようです。


豪快伝説その2)徹底的な現場主義の雷親父

資料館

井上勝資料館(萩駅):正面のタペストリーは作業服姿の井上勝

井上勝は政府の方針のもと、名実ともに日本側の最高技術者として外国人技術者と共に事業を進めていきます。政府の高官として、事務や交渉の仕事も多くあったようですが、現場をとても重視していました。留学先の英国では学問の傍ら鉱山や鉄道の現場で工夫たちの作業に混ざって実際の現場を学び、日本の現場でも自らスコップをもって作業する姿がよく知られています。

現場に出て自ら工事の質を確認するだけではなく、お雇い外国人が日本人労働者を侮蔑したり傲慢な態度をとって無駄な作業を命じたりすると、すごい剣幕で怒鳴りこんでいき、相手が過ちを認めれば最後には和やかに酒を飲み交わして自分たちの使命を共有したといいます。

また、日本人技術者にとっても、「雷親父」的な存在だったようです。今だとパワハラ上司と呼ばれてしまったかもしれません。ただ、外国人技術者にもひるまず文句を言うし、上司にも血気盛んに掛け合うし、責任者なのに自ら現場で寝食を共にして作業するので、部下からは慕われていたようです。

結果的に勝の性格は外国人技術者と日本人労働者の潤滑油となり、工事の進展を円滑にしたのではないでしょうか。勝の言動は、心から少しでも早く鉄道が必要だと思う気迫に溢れ、少しでも怠けた技術者がいれば、自分が恥ずかしくなるようなものだったのでしょう。トップが率先して先頭に立つ姿は今の時代でも求められている気がします。


豪快伝説その3)前に前に突き進むイノシシ侍

高邁な思想を持ち、多くの公共的な事業を行った井上勝は、こうと決めたら猪突猛進。伝記では「イノシシ侍」「直情径行」などと表現されています。品行方正で聖人のような性格とは程遠かったようで、萩資料館の学芸員の方は、口も悪く短気で良く怒鳴っていたと仰っていました。

エネルギッシュな勝には、こんなエピソードがあります。

新橋-横浜間開業後、神戸―大阪間の工事進捗が思わしくなかった時、現場の近くで指示したいと鉄道寮(鉄道局)を大阪に移すことを提案します。当時、上司は共に英国に密航した山尾庸三でしたが、提案を受け入れられなかった勝は喧嘩別れのようにして鉄道頭を辞職するのです。

その翌年、岩倉使節団から帰国した伊藤博文のとりなしで復職し、目論見通り鉄道寮の大阪移転を実現し、神戸-大阪間の鉄道事業を強力に推進します。

また、勝は酒飲みでもあり、留学中は「Nomuran(呑乱)」と名乗りUCLの修了証書にもそう記載されているほどでした。鉄道敷設の交渉が上手くいかなければ地域住民に熱心に説明に行き、酒席も設けたようです。技術者としても誠実で、新しい技術を学び、後輩からの提案も素直に聞いていたようです。

事業家としてイノシシ侍でありながら、技術者としては飲みニケーションもしながら誠実さも持ち合わせたバランス感覚に優れた人だったからこそ、将来を見据えて豪快に鉄道敷設を推進する、日本の鉄道事業にとってエンジンのような存在になったのだと思います。


小岩井農場創業秘話

さて、勝が小岩井農場の創業を思いついたエピソードも記しておきます。
当時鉄道庁長官だった勝は、東北本線延伸のため岩手県を視察します。岩手山南麓の荒れ地を眺めながら、文明開化のためとはいえ自分が携わってきた鉄道敷設事業によって多くの美田良圃(美しい田や良い畑)を潰してきたことを思い起こしたそうです。

そして、このような荒れ地が官有で放置されているのであれば、開墾し農業・牧畜のために整備することでその埋め合わせをしたい、それこそ国家公共のためであり自分ができることなのではないかと考えたのです。

勝の思想に感銘を受けた三菱財閥の岩崎弥之助、小野義眞らの協力があり、当時47歳だった勝を場主として小岩井農場が創業します。小岩井農場は、小野、岩崎、井上の頭文字をとったものだったのです。

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私自身は、もともと山口県には縁もゆかりもありませんでした。しかし、学生時代に恩師から「こんな立派な人がおったんやで」と教えてもらったことがきっかけで井上勝を知り、調べるうちに、様々な偉業と魅力を知りました。勝の生きざまに触れて、国と国土を愛するということが土木技術者に必要な資質なのではないかと強く感じています。

山口大学に着任が決まった際は、大変恐れ多いことですが、墓前にご挨拶させていただきました。井上勝の墓所は品川の、東海道新幹線と東海道本線が交わる場所にあります。日本と鉄道を見守っている勝に恥じないよう、研究と教育に励みたいと思っています。

井上勝墓

JR線を後ろに従えた井上勝の墓


■オススメ文献■
もっと井上勝を知りたい!と思っていただいた方は是非手に取ってみてください。

東海道線誕生 鉄道の父・井上勝の生涯(中村健治/イカロス出版株式会社/2009年)

井上勝: 職掌は唯クロカネの道作に候 (ミネルヴァ日本評伝選)
(老川慶喜/ミネルヴァ書房/2013)

クロカネの道をゆく「鉄道の父」と呼ばれた男」(江上剛/PHP文芸文庫/2020年)

日本の鉄道をつくった人たち」 (小池滋/青木栄一/和久田康雄/悠書館2010年)

土木技術の自立を築いた指導者たち―井上勝・古市公威・沖野忠雄・田辺朔郎・広井勇」(かこさとし/ 土木の歴史絵本 (第4巻))


文責・写真:鈴木春菜(山口大学創成科学研究科准教授)
プロフィール
愛知県豊橋市出身。専門は交通計画、地域意識。博士研究では地域への愛着を育むための土木の役割をテーマにしていた。国土と地域を愛する土木技術者を育てることが夢で、毎年新入生に井上勝について紹介している。