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 十一月末。土曜日。夜。


 午後八時四二分。高架橋下。

 新幹線が時折、光と音と共に駆け抜けてゆく。下にある小さな公園。ベンチと小さなブランコしかない、公園と言うにはいささかお粗末な広場だ。
 そんな場所に、何人もの人間が集まっていた。若い男性が多く見られる。中には老齢の人間や女性もいるが、全員に共通しているのは動きやすい服装をしているという点であった。数名は柔軟体操などしており、まるで大会かなにかの雰囲気がある。
 この広場で行われるのはいわゆるストリートバトルである。隔週で開催されるそれは最初、仲間内数名での遊びであった。少しづつ人数が増え、本格的になり、容赦のない怪我を伴うようになっても、その催しは続いた。人数は増減を繰り返し、現在の形に落ち着いた。

 いつもは九時からスタートする。特に順番など決まってはいない。なんとなく組み合わせが決まり、なんとなく始まる。お目当ての相手がいたりする場合はすんなり進行するし、ほとんどの人間がそうだ。
 だが、その日は違った。全く見覚えのない、しかも参加する気もなさそうな人間が三人。スーツに身を包み遠巻きに眺めている奴ら。参加したくても踏み出せない新人なら迎え入れるが、あからさまに空気が違う。
 あまり居心地は良くない。物見遊山だろうか。まるで値踏みされているかのような気持ちだ。参加者の誰もがそう思った時だ。

「突然すみません。お話があるのですが」

 一番偉そうな中年の男が、広場の中央に進み出て口を開いた。


 午後九時。目澤宅。

 もらった合鍵でドアを開ける。慣れてきたと思っていたが、そんなことはなかった。みさきはいつも緊張してしまう。
 今日は土曜の夜。目澤の部屋で夕飯を作り、一緒に食べる日だ。今日は特に遅くなると聞いていたので、この時間にお邪魔した。目澤はまだ帰ってきていない。と、考えて、みさきは顔を赤らめた。帰ってきて、なんて、まるで、奥さんみたいだな。
 意気揚々と玄関を上がる。さて、今宵も腕を振るってとびっきりのおいしいごはんを作ろうか。


 午後九時五一分。陣野病院。

 思っていたより早く業務を終えることができた。自分自身も随分慌てていたが、周囲も気を使ってくれているのが分かる。ありがたい話だ、と目澤はしみじみ思う。
 今日は土曜だ。土曜の夜だ。部屋でみさきが夕飯を作って待っていてくれる日だ。特別な夜なのだ。まるで初恋の熱に浮かされる子供のよう。目澤はそう自覚しながらも、自分を抑えることができないでいる。ひとつひとつの事実がひたすらに嬉しい。こんなに幸せでよいのだろうか。
 帰る支度もつい早くなってしまう。目澤は浮かれる気持ちを隠しもしないまま鞄に諸々を詰め込み、素早くコートを着た。

「お疲れ様でした」
「はーい、お疲れ様ー」

 走り出したい気持ちを抑える。廊下ですれ違った夜勤の中川路が、薄く笑って背中を叩いてくる。片手を上げて返事とする。

 外は寒く、吐く息は白い。この地域は夏は暑いし冬は寒い。しかもとびきりだ。盆地であるから仕方がないのだが、もう少しなんとかならないかと天を恨めしく思う。
 いつもの帰り道。なのに、一歩進むごとに高揚する。ウキウキする、というやつだ。この歳でこの有様。早く帰ろう、少し走ろうかな。少しだけ。

 しかし、微かな違和感を、目澤は無視することができなかった。
 背後から聞こえてくる足音。徐々に早くなる。徒歩から駆け足へ。そしてかなりの速度へ。角度と方向から察するに避ける気などない。真っ直ぐに、こちらへ。
 目澤が振り向くのと、相手の飛び蹴りが炸裂するのがほぼ同時。完全に空中に飛んだのを確認して、目澤は手にしたビジネスバッグを思い切り振り回した。相手の足首に当たる。衝撃の感触が、足首を捻挫させたであろうことを伝えてくる。派手に飛んだ分の反動で相手は吹き飛び道路へと叩き付けられた。
 間髪入れず目澤は走る。相手の動向など逐一待ってやる必要はないからだ。立ち上がるよりも前に相手へと駆け寄り、もんどり打って仰向けになったところを力一杯踏み付けてやった。腹に一発、条件反射的に手が腹に伸びたタイミングで頭にも一発。アスファルトに頭部が衝突、気絶する。

 少し離れた場所から、何か話し声のようなものが聞こえてきた。

「うわ、早くね?」
「次行け次!」

 誰かがこちらに向かって飛び出してくる。こちらをはっきりと見ているのが暗がりの中でも分かる。またか、という思いと、こんな時に、という苛立ち。その隙間に混ざるのは、なんとも言えない違和感だ。いつもと何かが違う。だが、その違和感の正体を探る余裕はない。
 二番手が間合いまで接近する。これまたご丁寧に相手の攻撃を受けてやる必要はないので、真っ直ぐに駆けてくる彼の胴体を蹴飛ばしてやった。ヤクザキックというやつだ。避けもしなかった相手は素直に受け、素直に吹っ飛ばされる。とどめを刺そうと思ったがそうもいかない。他の人間が間髪入れず迫ってきたからだ。

 何なんだ、これは。何かがおかしい。何が起こっている? 目澤の脳裏にそんな言葉が一瞬浮かぶが、考える暇を相手は与えてくれない。


 午後十時三分。路地裏。

 スーツを着た男達が数名、建物の隙間に潜んでいる。

「始まりました」

 無線で何者かとやり取り。

「了解しました」

 ごく短い応答があって、再び静寂。彼らの視線の先には、目澤がいる。素人達がひとり、またひとり、目澤に挑んでは倒される。
 勝敗はどうでもいい。対象の体力を削ってくれさえすれば良いのだ。そうでなければ意味がない。いっそ倒してくれればもっと良いが、無理だろう。それができているならこんなことにはなっていないし、寒空の下で更に寒い路地裏に潜む必要もない。
 ぶるり、一つ身震い。寒さが地面から這い上がってくる。


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榊かえる
恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。