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一度、顔を合わせて話を聞きたい。レポートを読んだ中川路の頭の中はその一点でいっぱいになっていた。A班のクニオカという人物、そこまで分かっていれば上等だ。食堂で眺め回した限り日本人はそれほどいないようだし、すぐに見つかるだろう。
そんな風にタカをくくってA班の実験棟に赴いたはいいが、思った以上に広い。そして、人がいない。
「なんでいないんだよ、オイ」
人っ子一人いない。さてどうしたもんかと立ち尽くしていると、奥の方から何か、かすかに音が聞こえる。音が聞こえるということは何かある、もしくは人がいる可能性がある。とにかくそちらへ行ってみようと、中川路はその音だけを頼りに突き進み始めた。
しばらく進むと、音は大きくなる。方向は間違っていないようだ。何か硬いものを扱っている音と、人々のざわめき。我ながらいい勘をしているなと自画自賛しながらさらに進むと、いよいよ音は大きくなる。
角を曲がる。すると、目の前に開けた場所。だが、その空間を埋め尽くす機械。組立作業中であるらしい巨大な機械と、大量の人々。組立作業員の他に白衣を着た人間がわんさかといた。その白衣組も、防塵ゴーグルだとか作業用マスクだとかを付けていてほとんど組立作業員状態ではあるのだが。
「……機材の組み立てか」
A班専用の観測用機材。何せ原子レベルの観測用だ、デカいわ複雑だわで組み立てるのも大変だ。A班総出で作業しているのも当然と言えた。
時間だから休憩しよう、なんて声が聞こえて、緊張した空気が緩む。チャンスだ。とりあえず誰でもいいから捕まえて聞こう。中川路はそう決めて、それこそ一番近くに居た人間の肩を叩いた。
相手は体格や凹凸からして女性なのは分かる。だが、防塵ゴーグルに作業用マスク、髪の毛はひっつめてこれまた作業用か何かのキャップに押し込んでしまっている。大きめのシャツの袖をまくって、軍手は機械油で汚れていた。
「あの、今、ちょっといいですか」
「はいどうぞ、何でしょか」
「A班の、ドクター・クニオカを探しているのですが」
相手は体ごと振り向いて、「どんなご用件でしょ」と返してくる。どうやら組立作業員ではなく、A班の人間であるらしい。
「レポートを読んで、直にお話を聞きたいと思いまして……『アストロバイオロジー的観点からの考察』というレポートなんですが。ドクターがこちらにいらっしゃ……」
「ホントに? うわあ、アレを読んでくれたの?! 他のじゃなくて?」
「他?」
「だって、アレってキワモノすぎて誰も読んでくれなかったんだもの!」
「キワモノじゃないでしょう、いくらA班の人でも失れ……」
最後まで言葉を言わせてくれなかった。相手は中川路の手を取ろうとして、自分の軍手が汚れていることを思い出し、慌てて脱ぎ捨てると両手を包むように握ってきたのだ。
「ありがとうございます! 読んでくれただけでも嬉しい! きゃあ、嬉しい、書いて良かった!」
握った手を上下に振りまくる。中川路はなされるがまま。
「みんな他のは読んでくれるんだけど、アレだけ見事に避けられちゃってどうしようかなって思ってたの! あれ、A班の人じゃないですよね?」
「B班の細菌学部門です」
「細菌学! そっか、細菌学かぁ! 広い意味で言えば細菌学もアストロバイオロジーのひとつだし、ああ、えっと、お名前は?」
「マサヒコ・ナカカワジです」
「はい、ドクター・ナカカワジね! よろしくお願いします! ……って、いっけない」
一気にまくし立てていた相手はこれまた慌てて自分の名札を探すが、名札がついている白衣は畳んで隅に置いたまま。仕方ないのでとりあえず帽子を取り、ゴーグルとマスクを外した。長い黒髪がばさりと落ちてきて、乱暴に掻き上げる。向ける、笑顔。
「A班の国岡です。国岡月子。中川路先生は日本人だよね、日本語で喋ってもいいかな?」
黙っていさえすればクール系美女で通るはずの、ご結構な美人。それが、汗まみれで機械油に汚れて、少年のように笑っていた。
普段の中川路であれば間髪入れずに食事にでも誘っていたであろう。が、彼女の雰囲気に呑まれたのか、それともレポートから受けていた男性的印象との乖離に混乱していたのか、ナンパしてやろうという考えは完全に吹っ飛んでいた。
「えっと、これの組立作業が終わってからでもいいかな」
「……あ、え、勿論大丈夫ですよ」
「良かったー……あ、でも、どれだけ掛かるか分かんないか……作業が終わったら、こちらから連絡入れさせて下さい」
「じゃあ、これ」
部署名と自分の名前、そして各研究員に割り振られたメールアドレスが記載されたカードを渡す。名札ケースの中に何枚かあらかじめ入っていて、中川路は既に目澤と塩野にこれを渡していた。
月子も大慌てで白衣を持ってくると、カードを手渡した。女性にしては少し骨ばっている手だな、と、ようやく中川路は余裕を持って彼女を見つめることができた。どちらかと言えば、作業をする者の手だ。
後になって思う。この時点でナンパでも何でもしておけばよかった。もっと早く、関わりを深めておけばよかった。だが、何を言っても全て、後の祭にしか過ぎない。何もかもが過去のことになって、泡のように消える。
月子から連絡が入ったのは翌日の夜だった。流石にその日は諦めて、更に翌日の約束を取り付ける。
その間、中川路はひたすらレポートを読み続けた。何か、突破口のようなものが見えるのではないか。そんな感触があったからだ。自分の中にはない概念が、思考が、ぴたりと嵌まる気がしたからだ。パズルのピースを探す作業に似ている。多分この辺りなのではないかと見当をつけ、一つづつ当ててゆく。だが見つからない。たしかにこの辺りであるはずなのに。
もどかしいような、何とも言えない感覚を抱えて、中川路は翌日を待った。
当日。招き入れられた月子のラボはまだ空っぽで、デスクと椅子と、幾つかの書籍にレポートのファイルだけ。「広々してるでしょ」と笑う月子は、やはりどこか少年のような印象があった。折角の綺麗な黒髪は無造作に束ねただけだし、整った目鼻立ちも化粧っ気はない。
研究者にはよくあるパターンだった。お洒落にかける時間や手間を研究につぎ込んでしまうような、そんなタイプだ。
これまた普段の中川路であれば、勿体無いだとか、着飾ればいいのにとか、俺がコーディネイトしてやろうかなとか、それを切っ掛けにどうのこうのとか考えたはずだ。
しかし、彼の頭の中はレポートのことで一杯だった。中川路もまた、研究バカであったのだ。
「アストロバイオロジーって、ご存知でしたか?」
真っ先に月子が聞いてきたのは、基本的なことだった。
「いいえ。恥ずかしいのですが、国岡先生のレポートを読んで初めて知りました」
「いえ、そんな恥ずかしいなんてことないですよ! ここ最近になって知られてきた学問ですから」
数年前、NASAが提唱したものなのだと彼女は説明する。
火星から飛来した石の中に、生命の痕跡があった。NASAはそう高らかに宣言した。宣言したからにはもう引っ込みはつかない。できれば、表に出せる看板が欲しい。その看板として提唱されたのがこのアストロバイオロジー、宇宙生命学である。もっと前から存在した圏外生物学と内容はほぼ同じであったが、これによって注目度は高まった。これはまあ、世知辛い方の説明である。
いざ外宇宙に進出し、仮に生命体がいたらどうするか。外宇宙にこちらの生命体を持ち込んでしまったら? 逆に、外宇宙からの生命体を持ち込んでしまったら?
ならば最初から、生命体がいると考えた方が良いのではないか。居ないとは言い切れない。いることを考えて準備しなければならない。倫理問題的なものも抱え込んだ、やんわりとした概念。
であるから、アストロバイオロジー専門の研究科というものはまだ存在しない。実際、月子自身も専門は原子核物理学だ。
こんな風にやんわりとしたものであるが故に、ありとあらゆる学問を内包してしまう。この惑星自体を生命と定義付けてしまっても良い。また、人体を宇宙空間と定義してしまっても良い。生命というものをどのように位置付けるかによって、枠はどこまでも広がるしどこまでも狭まる。仮に、「袋状の物体が、外部のものを摂取することによって活動する」と生命活動を定義した場合、この「袋」をどこに定めるか。皮膚か、海洋か、大気圏か、それとも銀河系という枠か。
また、研究者によって真っ向から意見が別れる。外宇宙に生命は多数存在する、という学説と、外宇宙に生命はそうそう存在しない、という学説だ。しかしこの両者は対立するわけでもなく、それぞれの観点から「居る/居ない」証明を立てようとしている。
月子は「居る」派である。人間の視点や観測方法では認知できないだけではないか、という説を上げている。
「だって、犬には聞こえても人間には聞こえない、なんてこともあるでしょう? 地球の外なんてなったら、そんなの山程あると思うのよね」
「肉眼じゃ見えないような微生物を、肉眼で見ようとしているようなもんだってこと?」
「そうそう。もっと別の適切な観測方法があるはず。もしくは、我々人間にも認識できるような、生命活動の痕跡があるかもしれない。そこを原子核レベルで見つけてやろうと、そういうわけです」
月子は限界まで噛み砕いて説明してくれる。見習わなければな、と中川路はひそかに反省する。
「……で、話が例のアレになるんだけど」
例のアレ、箱の中から出てきたもの。ここに居る人間が集められた、最大の原因。
「まず、人間が普通に視覚や触覚で認識できる。さらに、凍結封鎖が効く。有機物を『食べる』。多分、地球上のものだと思うんだよね」
「それは俺も思った。粘菌っぽさもあるし、仮に外宇宙から来たものだとしても、地球上の生物に類似している点が多い」
「もしくは、もっと考え方を変えてもいいのかも」
「変える?」
「うん。我々の環境に類似している、じゃなくて、我々がアレに類似している」
さらりと言い放つ意見に、一瞬、寒気が走る。
「今、アレが出てきた箱を調べてるんだけど、とにかく古いの。古すぎてまだ年代が特定できない。地球上の生命が誕生とかどうのこうのとか、そんなレベルを超えちゃってるのね。そんな時代にアレを封印する、封印するという概念がある。その時点で、人類以前に知的生命体がこの惑星に存在していた証拠になると思う。封印した存在に我々が似ているのか、それとも、封印されていたアレに我々が似ているのか……」
「アレがアダムである可能性もある、と?」
「そゆこと。さらに乱暴なこと言っちゃえば、アレをやっつける術はきっとある。ここに、地球という環境上で存在している限り。地球という袋の中にいるんなら、この中で対処はできる。あれがアダムであったとしても」
自分で持ち込んだという緑茶を啜って、月子は口を湿らせた。これまた自分で持ち込んだという栗羊羹をつまみながら。
「ああそうだ、アレのアダ名って聞きました?」
突然の話題転換に、中川路は羊羹を咥えたまま首を横に振る。
「ミミック、だって。中身が宝物だと思って箱を開けたのに、中から出てきたのは怪物。だからミミック。ゲームなんかで出て来るじゃない、偽物の宝箱のモンスター」
「あぁ、アレね。期待して開けたら、逆に喰われた、ってか」
全く洒落になっていない。パンドラの箱ならば、まだ箱の底に希望が残っていたからマシだ。箱の中には希望どころか、純度の高い絶望ばかりがみっちりと詰まっていた。
そいつを、なんとかしなければならない。世界を守るだとか高尚な気持ちなどではない、目の前にある危機を回避しようという、防衛本能にも似た強迫観念だ。アレを放置すればどうなるか、馬鹿だって分かるだろう。分からないのなら喰われるだけだ。
「に、しても。やっぱり分からないことも多すぎる。現在の人類ではそこまでしか分からない、って言った方がいいのかな」
まず、体組織からしてよく分からないのだ。外部から摂取する物量と、摂取することによって膨張、増加する全体量とのバランスもよく分からない。さらには対応策と同時進行で研究をしなければならないという、非常にタイトな状況である。
「とにかく調べるしかないね。片っ端から」