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24-4

 エントランスはなんともなかった。普通に入ることができた。
 腕に下げたままの小さな紙袋が邪魔だ。中からリングケースだけ取り出すとポケットに突っ込み、紙袋は放り投げる。
 通り慣れた廊下を進み、A棟の入り口へ。ここもまだ無事なままで、本当に異常事態が発生しているのか実感は湧かない。だが、進むにつれその痕跡が見受けられるようになってきた。薙ぎ倒された内装品。ヒビの入ったガラス窓。散乱した廊下。これら全てはまだ、人間の成したものだとわかる。逃げる時にこうなってしまったのだろう。
 A棟の実験施設エリアに近付く。そこに突然、痕跡が現れた。血だ。床に血が、まるでペンキをぶちまけたように広がっている。思わず足が止まる。
 無理矢理にそこから視線を切った。今はただひとつのことだけ考えるべきだ。それ以外は、排除するべきだ。今は。
 そう己に言い聞かせながら廊下の角を曲がり、中川路は息を呑んだ。瓦礫だ。砕かれた壁の瓦礫が、行く手を阻んでいた。そこだけが異様な空間として存在していた。まるで、この先へは行ってはいけないと警告しているかのように。

「……クソッ!」

 廊下すべてが埋まっているわけではない。中川路は猛然と瓦礫を素手で取り除け始めた。砕けた壁の方は寧ろ隙間が開いており、人間一人くらいなら通れそうだったからだ。目論見は見事に当たって、なんとか空間を確保することができた。押しのけた瓦礫の幾つかにはべっとりと血が付着しており、中川路の掌を汚す。

 A棟実験施設エリアは、見るも無残な姿へと変わり果てていた。瓦礫。砕かれた壁。散らばる機材。床は散乱した物で踏み場もない。
 それでも無理矢理に中川路は足を進めた。瓦礫の上に乗った途端に足元が崩れ、慌てて近くの壁に手をつくと、滑るような感触がした。ここもまた血、そして肉片。まだ乾ききってはいない。
 恐怖よりも先に、焦りが中川路を襲った。早くしなければと己を急かす。急がなければ。もたもたしている暇はない。
 人の気配は一切無かった。皆無事に避難できたのなら良いのだが、正直それは期待できない。これだけの血が飛び散っているのだから。しかし同時に、倒れている影も見当たらない。
 誰か一人でも生きていてくれたら……そんなことを考えて、振り払うように頭を振った。縁起でもない。それではまるで、この中にいた全員が死んでしまったようではないか。生きている。生きているに違いない。どこか屋内に避難しているかもしれない。そうであってくれ。そうに違いない。

「月子さん!」

 思わず声を張り上げた。声が返ってくるような気がして。何も帰っては来ない。人の気配すら、なにも。

「月子さん、どこ?」

 縋るように虚空に向かって叫び、情けない自分の声の隙間に僅か、何かの音がした。それが一体何の音なのかまともに考えもせずそちらの方向へ進む。それが月子の使っていたラボの方角だと気付いていながら。
 目を閉じていたって、月子のラボへ行ける自信がある。故に、進むことに対する恐怖もあった。行く先に何があるのか。
 実際に彼女のラボへと到達してみれば、そこには抉れた壁と破壊された実験用機材。血の気が引く感覚。身を乗り出して中を覗き込む。だが、そこに血の痕はなかった。大丈夫だ。大丈夫だ。月子さんは無事だ。何度も頭の中で呟いて、歯を食い縛る。

 どこかから鳥の鳴き声が聞こえる。そいつの正体は分かっていた、ミミックだ。奴が島にいる生物を捕食し、その声帯を模倣しているために発生する音。
 ならば、と、その声を頻繁に聞いている目澤に問うたことがある。鳥以外の声は出さないのだろうかと。ごく稀にある、という言葉が帰ってきた。ネズミやイノシシ、そして人間。だが、と目澤は言った。そのどれもが、悲鳴ではないのだと。穏やかな吐息のような声ばかりなのだ。捕食した絶対数が少ないからなのだろう。それらの声は一度聞くか聞かないか程度だとも言われた。

 鳥の鳴き声は、奇妙な途切れ方をする。その合間合間に、何かが潰れるような音がする。嫌な予感。考えたくはない。その音に答えを出したくない。

「……ああぁ」

 吐息のような人の声。自分が発したものではない。目澤が言っていた、人間の声帯の模倣。何故、滅多に聞くことなどないという人間の声の模倣が聞こえる? 捕食した数と学習内容は比例するのでは? 到達したくはない結論が頭の中にちらつく。解っているが分かりたくない。

 そして、廊下の曲がり角に辿り着いた。床には赤黒い血と、緑色の液体。最初に見た映像にもあった。市村も言っていた。奴の流す涙は緑色であるのだと。
 緑色の体液と赤色の血液が半端に混ざり合って、なんとも言えない色。醜悪なまだら模様。鼻腔を刺す生臭さ。

 そっと、角の向こう側を覗き込んだ。

 そこにいた。
 緑とも紫ともつかない奇妙な色合い。肉の泡の塊。廊下の端、天井まで膨れ上がって、弾けては消え、再び膨れ上がる。
 弾けた肉の泡の中から、様々な生物のパーツが生成され消えてゆく。そのほとんどは人間のものだ。手、足、耳、鼻、目、口、更には骨や内臓まで。大きさもデタラメで、パーツはひとつづつバラけていた。法則性はなく、ただひたすら無軌道に、ぽろぽろとこぼれ落ちるように、足りないものを補おうと藻掻くように、作り、消え、作り、溶け、作り、崩れ。しかし肥大する。当て所もなく。
 眼球ばかりが消えることなく残り、緑色の涙を流している。眼球だけは最初から持っていた器官だ。人間のものによく似た、しかし違う黒目がちの瞳。
 そして、口。口と言っても良いのだろうか? ただ乱暴に開いただけの裂け目だ。鳥のクチバシが上だけ付いていたり、人間の歯が唇の位置にあったり、それらすらなくただぽっかりと開いた穴であったり。

 そんな口が、一心不乱に人間を食っていた。地面に転がる死体を歪な翼で掻き寄せ、長さのおかしい腕や指でつまみ上げて、口の中へと放り込む。その途中で腕が崩れ、幼子が不器用にこぼすように死体は床へと落ちる。噛み切るには向かない臼歯で頭だけ食い千切ろうとして失敗し、頭蓋骨や脛骨が潰れる嫌な音がする。
 白衣が真っ赤に染まっていた。赤黒く、流す血で、何着もの白衣が、真っ赤に。名札が何枚も落ちている。A班もB班もC班もW班も、全ての名札がある。ここに人間を集めて食っているのかと、中川路は悟る。


 ここから先の一部は、記憶がぼやけている。ただ、何を見たのかという認識はある。

 月子の腕だ。

 月子の左腕が、千切れて、崩れ落ちる巨大な唇と歯と舌と共に、床へこぼれたのを見た。それだけは、分かっている。

 はっきりと覚えていないからこそ、今があるのだろう。


 顔を引っ込めた。背中を壁につけた。しかし立っていることができず、中川路は床に座り込んだ。声が出そうになり、両手で口を力一杯押さえ込んだ。仲間が、同僚が、他の班の奴らが。そして、月子が。食われている。死んでいる。ここには誰もいない。生きているのは自分だけ。誰も、いない。
 歯の根が合わない。膝が言うことを聞かない。壊れた機械のように震えだす体を、血の気が引く頭を、ひたすら壁に押し付けて中川路は息を殺す。涙が溢れて流れ落ちるが、そんなものにかまっている余裕はなかった。ミミックは聴力が弱い。だが、無い訳ではない。あまり大きい音を出してはならないと、混乱する頭の片隅でそこだけが冷静なままだった。そう強く思わなければ、大きな悲鳴が口から漏れ出していただろう。

 歯を食い縛る。足に力を入れる。両腕で体を抱え込み、震えを強引に止めた。ゆっくりと息を吐き、吸って、吐く。何度も。止まれ、止まれと頭の中で呟く。止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ!
 気が付けば息を止めていた。そのことに気付いた時、震えはおさまっていた。思い出したように息をつく。呼吸はまだ荒いが、行ける。そっと立ち上がり、向こうに気付かれていないことを探る。大丈夫だ。行ける。やれる。やらなければならない。
 中川路の心は、恐怖ではなく、怒りに似た感情に染まっていた。
 アイツをこの世から消し去ってやる。亡き者にしてやる。一片たりともこの世界に残してやるものか。ミミックを、倒す。

 できるという確信があった。中川路が月子と共に開発したあの菌、あれならできると信じていた。いや、できるという認識。臨床実験も終えている。細胞片での実験でしかないが、劇的な効果を発揮した。
 自分達の研究以外にも、いくつか結果を出しているチームがいたはずだ。もしこれが駄目でも、まだ手はある。だがそんな心配は無用だ。必ず屠る。それが、できる。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。