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午後十一時二十八分。網屋の自室。
椿の話を聞いていた網屋の表情は、かなり険しいものになっていた。
「まあ、勤務の関係かもしれないからね」
『ですよね。ホントすみません、なんか神経質になっちゃって』
「いやいや、全然問題ないでしょ。心配になるのも当然でしょ」
声色には出さないようにしているが、猛烈に嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。それ以外に要素がない。
「ま、ちょっと確認してみ……あ、ごめん、キャッチ入った」
『あ、はい、じゃこっち大丈夫なんで切っちゃってください』
「うん、分かったらすぐ連絡します」
『よろしくお願いします』
「はーい」
極力のんきを装って返事をし、慌てて割り込み通話のボタンを押す。誰が相手かなど確認する暇はない。耳に飛び込んできたのは聞き慣れた声だった。
『すまん網屋君、緊急事態だ』
いつもより低音の中川路。予感が実感へと変わる。
『目澤が襲撃されている。相手は多分複数。前に話したことがあるだろう、ストリートファイトをやってる連中だ』
「ああ、例の! ついに動きましたか」
『警察を名乗る人間から襲撃の依頼があったらしい。予測が当たってしまったな』
「だったら、もしかして」
『そうだ、ストリートファイトの連中は捨て駒だと思われる』
事前に話は聞いていた。杞憂に終わればいいんだが、という前置きを付けて中川路が語った襲撃者候補のうちの一つだ。その時に網屋達はこんな予測を立てていた。
敵方がそいつらをぶつけてくるメリットは、人数と時間稼ぎ。お間違いで倒してくれれば御の字だろうし、そうでなくとも体力と時間を削ることができる。こちら側が彼等を屠ってしまえば口封じにもなる。故に、本命が控えているはずだ。とどめを刺すのと後始末を兼ねた奴等が。
『相手もなりふり構わなくなっているな』
「ですね。完全なド素人を使ってくるのは今回が初でしょう」
『ああ。網屋君、今すぐに目澤のとこに行けるか』
「可能な限り急ぎます」
『よろしく頼む』
会話中に準備を進め、通話を切ると間髪入れずに次の通話。掛ける相手は勿論。
「すまん相田、車出せるか」
午後十一時四十五分。目澤宅。
みさきは食卓に突っ伏していた。寝ているのではない。寝ようとしているのだ。しかしそれができない。どうしても気になってしまって仕方ない。目澤はいつ帰ってくるのか。
彼女とて目澤の職業ゆえの忙しさは知っている、なにせ両親が医師であるから。目澤の勤める病院は外科に力を入れている所なので、外傷を負った急患が立て続けにやってくるなんてことも有り得るだろう。分かっている。分かっているのだ。それなのに。
「うう……」
みっともない声が漏れ出した。これ程度、慣れないでどうする。たかが一晩。
「うううー……」
しかも、心配だからという感情より会えなくて寂しいという感情の方が大きい、というのがなおさら気に食わない。会いたい、顔が見たい、笑ってほしい、抱きしめてほしい。なんてワガママなんだろうか。
夕飯の支度はとうの昔に終わっていて、食器の準備もできている。あとは貴方だけ。一番大切な人。貴方がいなければ、どうにもならない。
午後十一時五十分。公園。
この公園は何もない。ぽつりぽつりとわずかに遊具があり、しかしそれらは公園の端に設置されているので中央には何もなく、実際の面積よりもやけに広く見える。立地も国道の裏、さらには道に面している部分に植え込みがあるため非常に分かりにくく、ここに公園があるということ自体を知らない人も多いのではなかろうか。
その公園に、目澤はいた。ここを斜めに突っ切ると自宅への近道になる。しかしそう簡単に解決するはずもなく、阻むように次から次へと誰かがやってきてはいきなり襲いかかってくるのだ。
焦る。もうどれだけ時間が経ってしまったことだろう、と腕時計を見ると既に日付が変わる寸前。せめて遅くなると連絡できればいいのだが、それすらさせてくれない。焦りに、苛立ちと怒りが混ざり始めている。
腕時計に目をやった隙に敵の接近を許してしまった。相手の手が伸びる。襟元を掴む動きだと認識するのと、体が条件反射的に動いて真上に飛ぶのがほぼ同時。膝を自分の体に引き寄せるように飛び、その勢いを殺さぬまま、両足で思い切り相手の胸郭を蹴り飛ばした。かかとに返ってくる重い感触。そこそこ大きい体格の相手が、勢いよく吹っ飛んだ。
午後十一時五十二分。公園付近。
「仕事の終わりが何時になるか全く分からないらしくて、手も空かないって。加納さんに伝えておいてください。俺も、目澤先生と同じ職場の人に聞いただけで……うん、終わり次第連絡させるって言ってました。はい、はーい……」
網屋は通話しながら、タブレットを睨み付けていた。
「おし、この辺で停めてくれ」
「はいよ」
通話を終えると同時に停車を指示。相田と網屋を乗せた車は、公園の駐車場に入った。深夜帯であるにも関わらず数台の車両が見受けられる。
タブレット画面が映す、GPS追跡プログラムのポインターはすぐ近く。
「ここにいるな」
「ですね。公園の中だ」
「うーん……こっち危ねえな、別のとこにしよ。どっかあったっけ、この辺で車駐められるとこ」
「んー、あそこ空いてるかな。おせんべいやさんあったっしょ、でかいとこ」
「あー、あそこな、ワンチャンいけるかも」
相田は素早く車を発進させ、その間に網屋は手持ちの武器を確認する。いつもの229が二丁、片方はサプレッサーが装着済み。予備の弾倉。念の為に常備している変形プッシュダガーが一本。車内にも予備弾倉を詰め込んだ鞄を用意してある。
小さな声で「ごめんなさーい」と呟きながら、相田は煎餅店の駐車場に車を侵入させた。できる限り隅の方に駐める。
「じゃ、相田はここで待っててくれ。場合によっちゃ移動するかもしれない、そんときは言うわ。あと……」
「あと?」
「やばいと思ったら、すぐに逃げろ。ためらうな、すぐにだ。いいな?」
「了解。そうなったら、塩野先生に連絡取ればいいですかね?」
「んだな、中川路先生はまだ勤務中だし」
ドアを開けて外に出ようとした網屋は、立ち上がる前にもう一度相田の顔を見た。
「あのな、相田」
「はい?」
「これからは、お前の見える範囲でも仕事すると思う」
見える範囲、仕事。それらの言葉が示す意味は嫌でも分かる。
「なるべくそうならないようにするけど……前より、気が抜けちまってると思うから……まあその、覚悟だけはしておいてくれるか」
「分かりました。そうなる前に俺、逃げちゃうかもしれないけど」
「それがいいよ。逃げられる時はちゃちゃっと逃げとけ。んじゃ、行ってくるわ」
「はーい。気ぃ付けて行ったんさい」
「すぐにドアのロックかけとけよー」
ちょっと買い物に行ってくる程度のノリで網屋は車から降り、ドアを閉める。相田は言われた通りにすぐさまロックをかけ、その音の大きさにほんの少しだけ、驚いた。