選べ、潰れるほどに握れ/#選択のあとに #分岐点話
「もう限界だ!」
そう、叫んだ記憶がある。
「離婚してくれ!」
私が叫んだのだ。耐えきれなかった。私自身もそうだが、子供達が震えて泣いているのを見て、完全に「キレた」。
「テメェのクソみてぇな人間性にはもううんざりだ!」
そうして、私は何回目かの選択をした。
幼い頃から、何度も選択を迫られた。
幼稚園の頃に「お父さんとお母さん、どっちがいい?」と問われ、たまたまその日の機嫌が悪かった父があまりにも恐ろしかったので「おかあさん」と答えてしまい、そのまま親権が母に渡ったこと。
高校進学の際、第一志望か「お母さんと同じとこに行ってほしい」と言われたところにするか迫られ、結局は折れて母に従ったこと。
恋仲になった男性との再婚を祖母に反対され、夜逃げすることになった母についていくか否かを大学受験の時期に決断しなければならなくなったこと。
私は母についていった。母に従わなければならないと、その頃は信じていたからだ。
これまた大学を諦め、「母と同じ」医療系に進むことになったこと。もう、選択ではないような気がする。
妊娠が発覚し、一度は堕胎しようとしたこと。
結婚を反対され、抗う私を無理矢理に堕胎させようと母が手続きを進める中、悪阻に苦しみながら県をまたいで夜逃げしたこと。
夫の住んでいた賃貸物件があまりにも建付けが悪く、中古の戸建てを買う時に、私の貯金を全て崩し車も売って前金にあてたこと。
余裕がないからと、趣味である小説執筆を断念したこと。
「勝手に外に出るな」「髪型と服装は俺に従え」「交友関係は全て開示しろ」「あいつは気に食わないから縁を切れ」「外出する時は常に俺と出ろ」「金銭は俺が全て管理する」「俺がやれと言ったらいつでもどこでも性的な奉仕をしろ」「俺に全て従え」
夫の言うことにひたすら従い、奴隷になったこと。
ただひたすら私は、笑顔を作って呑み込んできた。従ってきた。渦巻く疑問や不平や不満を全てひた隠しにして、「従う」という選択肢を選んできた。人生の前半は母に、後半は夫に。他にないと思っていたからだ。それ以外に生きてゆく術がないと、そう思い込んでいたからだ。
だが、私の中には怒りが渦巻いていた。分かっていながら、私はそれに蓋をし続けた。仕方ないのだ、母から離れたら、夫と離婚したら、生きてゆけない。どうやって生活すればいいのか。金が無い。仕方がない……
私一人が従っていればなんとかなる。そう、思っていた。それしか知らなかったとも言える。知らないふりをしていた、とも言える。
母は子供のような人だった。そして、娘である私を己の上位版コピーにしようとしていた。同時に、便利な道具として。
再婚相手の取引先の社長さんとやらと婚約の手続きを進めている、相手の年齢は私より二周り上。そう知ったのが最初のほころびだった。浮かれながら紋付きの着物を勝手に仕立て、見合いの時にこれを着ろと言ってきた。今付き合ってる男とやらは別れろ、取引の邪魔になる。
その直後に妊娠が発覚したのだ。
本当は、私のような人間が子供など育てられないと思っていた。妊娠したら堕ろそうと決めていたのは私自身だった。避妊具なしを強要されていたので、妊娠は避けられないことは分かっていた。ならば、私が堕ろすしかない、と。
だが、仕事のストレスなのか嘔吐が止まらず、ついに血を吐き始めようやく医者に診てもらって妊娠を告げられたとき、私の意識は塗り替えられてしまった。
「必ず産む」「私が育てる」
まるで洗脳でもされたようだ。そう、感じた。この子を殺すわけにはいかない、その想いで頭はいっぱいになった。
この時に決めたのだ。母との縁を切る。今までの人生を捨てる。唯一の家族を、生まれ育った土地を、己の「今まで」を、かなぐり捨ててやる。この子のこれからを阻むのならば、そんなものは何もかも捨ててしまえばいい。
だから、夜逃げした。最低限のものだけボストンバッグに詰め込んで、私は県をまたいで逃げた。私がわずかに流した涙は、しつこく電話を掛けてくる母の金切り声が、あまりにもみすぼらしく薄っぺらに聞こえた悲しみによるものだった。
そうして、夫との狭い世界での生活が始まった。付き合っている当時から片鱗はあったが、結婚してから彼の本質が顕になってきた。
分かりやすく言えば、「モラルハラスメント夫」である。
私の行動全てが監視下に置かれた。私の意志は剥奪された。服装や髪型も指定された。外に出ることを禁止された。日中もカーテンを開けることは許されなかった。交友関係は全て絶たれた。電話の受け答えでさえ夫の前で行わければならず、通話記録をチェックされる日々が続いた。夫の望むタイミングで性的奉仕をしなければならず、外であろうが妊娠中・生理中でもお構いなしだった。金銭は一切与えられなかった。夫の機嫌が悪い時は何をやっても叱責された。気分で意見はコロコロ変わり、常に叱られ続ける生活が続いた。
飯が不味い、母と同じ味にしろ(彼の母は小料理店を営んでいるほどの腕前であった)。お茶の味が気に食わない。皿の大きさが気に食わない。メニューがおかしい。勝手に散歩に行くな。勝手に服を買うな。その金はどこから出した、貯金は全て俺に預けろ。髪は伸ばせ、髪コキできるくらいまで伸ばし続けろ。化粧はするな、そんなことに金を使う気はない。掃除ができてない。家事全般が全くできてない。母を見習え。節約しろ、食事は俺が買ってきたもので全てなんとかしろ。俺は体が弱いのだから常に気遣え。オークションで落札できなかったのはお前が指示を出してくれなかったからだ。お前の友達を呼んでもいいが、お前は食事の支度をするのだから台所から出てくるな。お前は俺の奴隷になれ。お前の友達も俺の奴隷にしたいから何人か呼べ。
友達の件に関しては拒否した。故に激しく叱責され、それは数カ月感続き、心は摩耗した。
出産した後も当然この状態は続いた。より苛烈になって。私は夫と子供以外の人間に会うこともできないまま、自宅の中で過ごし続けた。
思いつめた私は、子供を背に負ったまま首を吊ろうとした。夫が「お前に似合うから」と買い与えてくれた犬用のリードを持って、引っ掛ける場所を探した。数か所試したが、重みに耐えきれない箇所ばかりであった。
さてどうしよう、飛び降りたほうがいいだろうか。と、子供を背から降ろしたとき、こう思った。
「この子はどうするんだ」「オムツは?」「ミルクは?」「お風呂だってある」「あの人に育児などできようはずもない、この子が死んでしまう」「それだけはできない、許されない」「この子を、育てなければ」「この世に産まれてきた、それを選んだのは私だ。ならば、身勝手にそれから降りる訳には行かない」
決めたではないか。この子を育てる、と決めたのは自分自身だ。産んだ以上、勝手に投げ出すなどこの私が許さない。
私は、耐えることを選んだ。自身の選択としてだ。子供のせいにすることだけは絶対にするまい、と誓った。これは私の選択だ。
その後、双子を妊娠した。金銭が保つのか不安だったが、私は堕胎を選ばなかった。
歯を食いしばって耐えた。妊娠中に夫が出会い系に手を出し、「逆援交とかしたら資金になるかと思って」などとクソみたいな言い訳をしても耐えた。一秒前に発言した内容と全く逆のことを言い出し理不尽になじられても、外に出るなと言っておきながら結局は資金が足りず「働け」と命じられても、私が昔から好きな作品を片っ端からけなされ本もDVDも売却する羽目になっても、掃除をきちんとしたはずなのに「喘息が出る」と一晩中説教されても、私が悪いのだと思い耐えた。姑から「どうやって息子をたぶらかしたのか、アンタみたいなブサイクが」と言われても耐えた。オナホ同然の扱いを受けてさえ耐えた。
金が無い。実家に逃げ帰るという選択もできない。子供達を育てるためには、この人と暮らしてこの人に養ってもらうしかない。
耐えればよいのだ。私自身が劣っており、何もできないのが悪いのだ。
そう思い込むことによって、ギリギリの自我を保っていた。
だが。子供達が大きくなるにつれ、夫の「攻撃対象」は拡大していったのだ。そう、子供達だ。夫にとって子供も妻も「自分の奴隷」「自分の道具」である。彼の自尊心を満たすためだけに子供達は理不尽に叱られ、説教され、そのどれもが間違った内容だった。子供達の好きなものは全て否定された。一挙一動を監視され、支配され、常に付きまとう不機嫌に怯える。
子供達は喋らなくなった。父の前で何かを話せば、全て否定されるからだ。好きになった子のこと、好きな曲や本やゲーム、学校で起こった出来事も、食事の速度や食べる順番さえも、片っ端から否定され、叱られ、そのたびに夫は満足げな顔をする。
夫が仕事から帰ってくるまでの僅かな時間だけが、私達の自由時間だった。二階の窓から道路を見つめ、車体が見えたら即ゲームをやめ、本を隠し、居間に集まる。居間に全員が揃っていないと怒られるからだ。
夫がゲームをやっている姿を、我々は見つめていなければならない。夫の自慢話を逐一褒め称え、相槌を打たなければならない。夫が機嫌が悪い時に八つ当たりの対象として話を聞き、正座し続けなければならない。そんな日々だ。
いつしか私は、夫を本気で殺害する計画を練っていた。初期の頃の「私が死ねばいい、私が悪いんだ、生きている価値はない」という気持ちは消え去っていた。
元来の私は喧嘩っ早く、強気でゴリ押すタイプだ。両親の離婚以来、その性質はすっかり引っ込んでいた。が、その部分が鎌首をもたげていた。「なんでこっちがしおれてなけりゃならんのだ? ふざけんな」という気持ちが膨らんできていたのは、長男が同じような考えに至っていたからなのかもしれない。
冗談混じりで夫の殺害計画を長男と語りながら、しかしそれは実現されることはないと諦めていた。当然だ、あのクソ野郎のために犯罪など犯したくはない。現実味はない。屠るのは簡単だが隠蔽できない。
それに、そんなこと、できやしない。生活はどうすんだ。実家に逃げ帰ることなんざできねえ、資金援助も無理、期待できない。
夫は心臓を患っており、しかも難病だ。更に喘息もあり、内心で彼が死んでくれることを期待していた。だがその気配はない。なんだかんだ言ってピンシャンしている。入院は時折しているが、長期入院はない。あああクソッ、病室で口でさせられたの思い出して腹立ってきた。髪の毛掴まれてな。クソが。
実は、心臓の病気が何であるか長年謎だったのだ。良い先生に巡り合うことができ、ついに発覚したのはレアケースが重なりに重なった難病だった。しかもそいつはリンパ節にも悪影響を及ぼし、水分が体に溜まりまくる。特に、肺だ。肺に水が溜まるのだ。体を横にすると肺の中の水が気道を塞ぎ、呼吸が苦しくなる。
先述した「掃除しているのに喘息が出ると言われ叱責される」のは、これが原因だった。喘息ではなかったのだ。ハウスダストのせいではなかったのだ。
この事実が発覚しても、夫は私に謝ることなどなかった。当然だ、叱責した内容など彼は覚えていない。その時の気分で怒るのだから、今まで食べたパンの数をおぼえていないのと同じだ。
私が激高するポイントは、「誰かが理不尽な目に会う」という点に尽きる。自分はある程度まで耐えられる。なんだったら自分でキレてしまえばいい。だが、他の人はそうも行かない。私がどれほど怒り狂っても、当事者の心の安寧に直接つながるわけではない。誰かが辛いという、その状況が、私には何より耐えられぬ。
居間と台所が別なので、食事は台所からチマチマと運ぶ必要がある。食事の支度をしているとき、子供達は全員が台所に集まってくる癖があった。私の手伝いをするという体で父から離れることができるからだ。その分、実際に手伝いをしないと「お前ら、何をコソコソ話してるんだ」と不機嫌丸出しで愚痴を言われてしまう。
で、子供達があれやこれや運んでくれるのだが。
その日は、双子の娘がターゲットになった。居間から怒号が聞こえ、娘が半ば混乱しながら小皿を探す。持ってきた小皿の大きさが気に食わなかったらしい。指示された小皿を選んで再び居間に向かい、またもや怒号。真っ青になった娘が台所にやってきて、私の顔を見た瞬間、涙の堤防が決壊した。
「分かんないよ……言われた通りにしたのに……いつもお父さんは違うって、分からないのかって、自分で考えろって……考えても怒られるし、言う通りにしても怒られるし……もうやだ……!」
ぶつん、と音がした。気がした。分かりやすくブチ切れた顔の長男よりも先に、私のほうが居間に飛び込んだ。
「なあ、さっきはこっちの皿持ってこいって言ってたよなあ?」
私の喋り方が少し荒くなっていることに気付き、夫の顔が歪む。
「アイツが間違えたんだ、俺は別のを持ってこいって言ったんだ」
「お前が言ったんだろうが、コロコロ意見変えてんじゃねえよ」
お前、と呼ばれたのが気に食わなかったのだろう。いよいよ顔を赤くして怒鳴ろうとしたその時だ、私の怒号が先んじた。
「ホントいい加減にしろよお前! なんにも考えてねえだけだろうが! お前はなあ、ただ怒りたいだけだ! 私達はサンドバッグじゃねえ!」
包丁を持っていなくて良かった、と心底思った。持っていたら確実に刺していた。
「もう限界だ!」
そう、叫んだ記憶がある。
「離婚してくれ! テメェのクソみてぇな人間性にはもううんざりだ!」
双子は二人とも泣いていた。長男は怒りに染まりきった表情を隠しもしなかった。
「人のことを奴隷かなにかだと思ってんだろう? っつうか私に言ったよな、奴隷になれとかなんとか。お前おかしいよ、異常だよ! クソが! もうテメェと生活なんざできねえ!」
子供達のこれからを阻むのならば、この子達を理不尽に怯えさせ、泣かせ、自我を奪うというのならば。
捨ててやる。生活が苦しくなるかもしれない、だがそれがなんだ。精神が死んだまま暮らしてゆくなど、耐えきれない。子供達をそんな目に合わせ続けるのはもう嫌だ。どうにかならない、じゃない。どうにかするんだ。救いの糸が見えているのに諦めるのか。糸が細いからと言って見ないふりをするのか。
掴め。選択肢を掴め。選び取るのは自分だ。この私が、掴むのだ。そこにあるのだから。掴め!
「今すぐに離婚だ。二度と、私達の前に姿を現すな! このクソッタレ野郎が!」
こうして、私達はモラハラ夫からようやく離れることができたのだ。
背に腹は変えられぬと、一応実母に連絡は取ってみた。時が経てば解決するはずもなく、実母は「離婚するとか知らないよ、最後まで責任取りなさいよ」と喚き散らすばかりだった。「どうしても助けてほしいなら、私の家まで来て土下座くらいしろ」「私は真面目な人間だから、アンタが(この後は聞き取れず)」「ざまあみろ、アンタなんかひどい目に合えばいい」「アンタなんかもう私の子じゃないもん」等。
私はただ、「最後まで責任とか言ってさ、お母さんだって離婚したでしょうに?」とだけ返し、電話を切った。
あまり贅沢などできない生活だが、今の我が家は会話があり、笑顔があり、安心感がある。理不尽に叱責され、怯えながら息を潜めて生きる必要はなくなった。
故に、私は「自分の気分だけで理不尽に怒らない」ように心がけている。約二十年もの間アレと生活を続けてきて、影響を受けていないとは限らない。
いつも怖い。滅多に怒ったりなどはしないが、それでも叱責をする時はある。なるべく声を荒らげないように。なぜそれがいけないと思ったのか、これからどうすればよいのか、を一つ一つ丁寧に話す。
己に非があると悟ったのならすぐに謝る。あの人はそれができない人間だった。
相手の話をきちんと聞く。些細な内容であろうと、耳を傾ける。
バイト先で何があったとか、この曲がいいから聞いてとか、そのMSクッソかっけえとか、将来はどうしたいとか、ヒャアー推しの顔がいいとか、メシうめえとか。そんなこと。
長男と双子の妹が、実は辛いものが苦手だと知ったのは離婚してからである。あの野郎が辛いもの大好きで、えげつない辛さのものをたまに作っては我々に食わせ、少しでも食べられない様子を見せようものなら怒り出すので我慢して胃に流し込んでいたのだそうだ。
我が家のカレーは中辛になった。麻婆豆腐を作る時は豆板醤ひかえめにもなった。
双子の弟が物作りに興味があると知ったのも離婚してから。ガンプラ改造したりしている姿は実に楽しそうだ。職人気質であるからして、性に合っているのだろう。
正直言ってしまえば、生活は苦しい。どうにかこうにかしのいでいる。ひとり親家庭に対する支援の厚さに救われている。逆に言えば、どうにかなるのだ。やってやれないことはないのだ。
己の手でついに握ったこの選択を、離すまいと思う。そいつは自分が選んで、流されずに掴み取って、手に入れたのだ。己の力によって立つことを選んだ、その事実を手放すな。
こちらの企画に便乗した形で書きました。
書いているうちに「趣旨と……離れてきてね……?」と冷や汗脂汗がどっぱどっぱ流れてきましたが、勢いだけで書ききってしまいました。
許されるのか? これ大丈夫なのか??!?!?!? そ、その後の努力とか書いてなくね??????!?!? ドリキ、無くね??????? 努めるチカラと書いて努力。リキが足んねえ、力と書いてリキが。
しかも長い。内容の割に文字数が多いな。勢いだけで文章書いたって感じ! ヒャッハァー!!!!!!!!
いやお前これは違うだろがよ、って感じだったら、その、放置で! 放置でいいので!
いやあ、どっかで書きたかったんですよね。書くっていうかぶちまけるっていうか。ぶちまけちゃった。しかもシモ込み。下品! ぴゃ!!!
似たようなことで悩んでる人がいたら、迷わず別れろよ! 素晴らしい伴侶に恵まれているなら、大事にしろよ! よいこのみんな、榊さんとの約束だ!!