06-3
レーシングカートに初めて乗ったのは、四歳の時だ。
両親は仕事の都合上、自宅を留守にしがちだった。そもそも、日本国内にいる方が珍しいくらいだ。
故に、国内へ帰って来た時は様々な場所に連れて行ってくれたり、色々な事をしてくれた。その一つが、子供用レーシングカートの体験試乗だ。
自宅からそれほど遠くはない、とは言え車で一時間弱の場所にサーキットがあることを、両親は仕事の取材で知ったのだそうだ。
よく晴れた日であったことを覚えている。祖父の作ったおにぎりと、母の作ったおかずを弁当箱に詰めて、遠足気分でサーキットへ向かった。
あとは、夢中で走った記憶しかない。風や、ステアリングの感触や、エンジンの振動。それらを従えて、ひたすら走った。
その日、自分は両親に「また乗りたい」と懇願したのだそうだ。
そこから、今度は祖父に連れられてのサーキット通いが始まった。
追い抜く事や速さではなく、カートに乗る事自体が自分にとっての悦楽であった。
このマシンは最高何キロ出るんだよ、と言われたらそれを実行してみたくなる。実現すると、わあ、このマシンはすごいなぁ、などと感動したりするのだ。
レーシングカートという機械があって、それを作った人達や整備した人達がいて、走らせる場所がある。その場所において、遺憾なく性能を発揮させる。
走るために作られた機体の、存在意義であるその力を、自分の手で実現する喜び。
サーキットのスタッフからレースの案内を受け取ると、迷わず参加した。ジュニアのカデットクラスに出場する頃には、懇意にしているショップのチームに加入。
後はただ、ひたすらレースで走り続けた。
忙しいが楽しい日々だった。後で必要になるからと英会話教室に通わされたことも加わって、放課後はあまり同級生と遊んだ記憶が無い。
ただ、ランドセルを背負ったまま網屋家に突入することは多々あった。
ありがたい事に、英会話教室は自治会の班一つ離れた程度の位置にあり、歩いて通うことができた。その教室と自宅の中間に網屋家があったのだ。
学校帰りに網屋家へお邪魔してゲームなどやり、時間になったら英会話教室へ行く。クラスを終えたらそのまま帰る。自宅で宿題、自分で風呂掃除をして入浴、祖父と一緒に夕飯を食べ、筋トレをして泥のように眠る。
大きなレースが近付くと、学校を休んで練習をしたこともある。先生の少し苦い顔を思い出す。
転機は、ジュニアカデットクラスからジュニアクラスへ移行した最初の歳、十二歳の時に訪れた。
十二歳から十五歳の年齢層で競うジュニアレース。東日本と西日本に別れ各五戦、その後、日本一のジュニアレーサーを決める「東西統一戦」が行われる。
東日本大会をトップの成績で突破し、東西統一戦の切符を手に入れた九月。
それまで、自分は相手レーサーというものを強く意識したことは無かった。ただ走る喜びばかり追いかけ、それ以外はほとんど見えていなかったからだ。
翌月の東西統一戦。そこで初めて、彼の走りを目の当たりにする。
隙の無いコーナリング。伸びやかな直線の加速。まるで、マシンに彼の意志が宿っているかのように見えた。ほぼ完璧に近い程、彼は機体を制御していた。
初めてだ。この時、カートを始めてから八年、初めて、強く思った。
このレーサーと競いたい、と。
この統一戦は、本当にごく僅かな差で自分が勝利を収めた。
表彰台の上に立って隣の彼を見た時、湧き上がってきた喜びは勝利によるものではなかった。
「なあ!」
取材班のカメラフラッシュも無視して、思わず話し掛ける。
「すごいなお前! 速いし強いし、めちゃくちゃカッコ良かった!」
少し下の位置から目が合う。相手も、満面の笑みを浮かべた。
「そっちもな! こんなに速ぇ奴、俺、初めて見たわ!」
そして、白い歯を見せて笑いながら、こう続けたのだ。
「むっちゃ楽しかったやんな!」
自分もそうだ。全く同じだった。いや、こんなに楽しいと感じたのはそれこそ、初めてカートに乗った時以来ではなかろうか。
これが、彼との最初の出会いだった。
『西日本の覇者』、『迅雷』、等々力響介(とどろききょうすけ)。
このジュニア東西統一戦を皮切りに、大きな大会で事あるごとに彼とぶつかった。
必ず、響介は決勝まで上がってくる。考えるまでもなく、常に結果はそうだった。故に、自分も決勝を目指す。彼とまた、競うために。
目的が明確化されることにより、結果としてそうなっただけであったが、己の成績は飛躍的に上がっていった。さらに、複数の大手スポンサーも付いた。チームも大きくなった。
人の意志が、動きが、一つの大きなうねりになっていたように感じる。
終えた後に気を失いそうな程厳しい練習も、きついトレーニングも、遠征のための長い移動も、まるで苦にならなかった。
それは彼と、再び同じサーキットで走るため。そして、より上へ行くことで出会うかもしれない「遊び仲間」を探すため。
ごく個人的な欲望に駆られて走る。そんな簡単に済まされるような規模ではなくなってきていると、それ位は分かっていた。何も考えず、何も責任を負わずにいられる程に愚かでもなかった。
だが、それでも。求めるものはひどく小さいものであったと思う。
強いて言うなら。苦痛であった事を探すなら。
取材は恥ずかしくて苦手だったし、それこそまさに「苦痛」だった。何を喋って良いのか分からないし、雑誌に載ったら載ったで周辺からはつつかれるし、写真だってどんな顔をすれば良いのか見当もつかない。
一度、雑誌の特集とやらで、何故かピンク色なおかつハート型のクッションを持たされて撮影したことがあって、これが苦痛のピークであった。
それでも、そんな取材を受けた理由は、記者陣の「メシおごってやるから」という言葉である。
その号が発行された直後に、響介から爆笑で埋め尽くされた電話が来た。だが、その翌月号で響介自身が同じ憂き目に合っていたので、もちろん爆笑を倍にして返してやった。