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野獣の解体で形而上のものに思いをはせた話

amphibianです。

こちらの記事で、amphibianは狩猟より解体に適性を感じたと書きました。
今回は解体に際して思ったことを、解体写真つきで書いていきます。
哺乳動物の生々しい画像が苦手な方は、今回は注意されたほうがいいかもしれません。

なお、最初の解体の話はこちらです。








いきなり写真が目に入ってびっくりされないように、もうちょい改行します。







巻き狩りで獣がとれると、解体設備のあるどなたかのご自宅に行き、みんなで獣を解体します。
そんときはバタバタしてるので写真はない。-

かといって自前でシカを止め刺しして独りで解体したときの写真はコレしかなかった。写真不精ですまんな。
シカは引っ張ればぜんぶ皮がむけてラクです。イノシシは超強固であり皮ハギナイフが必要で相当大変です。


あるとき解体現場からイノシシのカシラをいただき、家で追加のバラシをしました。


一抱えもあるカシラなのだがサイズ感がどうしてもつたわらない


つたわらない

これから極限まで肉をはぎ取ったのがこちら

鼻の上に目を置いたらかなり不謹慎画像度が増したのであえてずらして撮ってる

頭からも結構(1キロくらい?)肉はとれます。
目を抜くと一気に「骨」の印象になりました。
マンガとかだと眼球って軽率に飛び出たり転がり落ちたりするけどありゃウソだとおもいました。筋やら膜やら神経やらですごく強固にはまっており、ナイフで抉り出しても相当大変です。百歩譲って目玉くりぬき達人の技巧の表現なのだとしたら、その技巧の達人度は読者が思うのの200倍くらいは今後みるようにしてください。

なおこの頭骨は牙ふくめてあまりに立派だったので土に埋めて標本にしようとしていますがしばらくしたらイタチが掘って巣穴にしてた。メルヘンか。


べつのやつ

これはamphibianがカシラ持ち帰り奴として認識されたためオートメーションで譲渡いただいた別個体のものです。かなり若い個体で牙も小さいです。
ナイフはモッシーオークの安い奴とスパイダルコのドラゴンフライです。

スパイダルコは切れ味がよいのですが狩猟の現場で使うとロゴがマダニに間違えられるという不具合があります。
あと猟期中盤から切れ味が劣化し研ぎによる復旧を試みているのですがなんかうまくいかない。独学の悪いところです。


ギリギリアリとみてTwitterでも出した写真

それでも直径24cm深さ16cmのパスタ鍋には入らないサイズ
これはスープをとろうとしたのですがどうにもならなかったので、

これはTwitterには出さなかった

タテに割り、そこからさらにバラバラにして煮ました。
結果的に骨の量が少なかったのか、そんなちゃんとしたスープはとれなかった。別途本格的なスープとりには挑戦したので別記事にします。


イノシシの胃袋も持ち帰るようにしています

ぴろぴろ

裏返した内壁。ところどころ穴があいて、半透明のプラスチックの管みたいなやつがささってるのですが、たぶん寄生虫だとおもいます。
解体直後でも動いてるやつは見たことなく、動かないやつなのか死んでるのかその他か詳細は不明。

一カ所にいっぱい刺さってることもある
ひっぱると抜ける

こいつは率直にいってかなりきもいと思う。
いまのところ3匹ぶん胃袋をみて例外なくいるので野生の食環境の厳しさをものがたってると思う一方、こんなに突き刺さってて胃痛は大丈夫なのだろうかと心配になる。
そりゃ撃たれたほうが痛いわいと獣の霊はいっていることでしょう。すまんな。胃袋ちゃんとバリバリに揚げて食ったよ。おいしかったよ。


これも最終的に食べた。チラガーみたいなものと思うけどTwitterに出してよかったか今でも迷うレベル。


さて形而上(metaphysical、『物理・物質の上をいく』の意)の主題についてですが、さっきのみたいに獣霊の存在を身近に感じたとかそういう話じゃありません。

端的にいうと、解体を行っていると、生物の体がおそろしく単純に感じられました

おかしい。
簡単すぎる。
かつて大学で神経や器官をひとつひとつスケッチしながらアサリやイモリを解剖した時と比べて、なんでこうも簡単に分解できてしまうのか。
皮をはぎ、消火器・循環器をぶちぬき、骨をそぎ取って肉を切り分ければそれでおしまい。
かたい頭骨をわざわざ割ることも少なければ、割って手のひらサイズの脳ミソが転がってきたところで「うわ、すごい模様」以上の感想を得ることもない。

考えてみれば当然です。
分析・分解というのは何らかの目的に沿っておこなわれるものです。
必然、目的外の要素は切り捨て、排除することで目的の純化・到達が行われます。
「肉を得る」という目的で行われる解体においては、「食べられる部位とそうでない部位の選別」が目的であって、それ以上の解像度は必要ない。

しかしそうしてみると、動物の体なんて「食いやすい肉の部分」と「食いにくい管・袋の部分」と「食えない骨」くらいにざっくざく分けられてしまいます。
哺乳類と魚の間になんの違いもない。
「アラをとって三枚におろして背骨おろして終了」とまったく同じ。

現代人である我々は、この肉や内臓や組織や神経それぞれ、体液一滴・細胞1コに至るまで微妙巧緻な生命の神秘が宿っていることをあらかじめ知っているわけですが、「解体者の目」で見た「肉」または「死体」は、直感的にそれを信じがたいほど単純で没個性なものでした。

そりゃあ、昔の人の興味は形而上の方向へいくだろうな、と思うのです。

SFとかでアンドロイドがぶっ壊れたとき中の複雑怪奇なメカが露出するじゃないですか。
グロ作家の人が描く絵などもあえて複雑な臓物の露出なんかが主題になりがちにおもえます。
あれって人間の願望なんじゃないでしょうか
自我を持ち思考を行いさまざまな知識を得て死んでいく我々の中身には、当然に相応に、複雑怪奇で特別なものが詰まっているのだと思いたいのです。
でも解体してみると、肉眼にうつるのは一見シンプルな肉と管と袋のかたまりです。
こんな単純なわけがない。
こんな、かつて「人間」だったものが、「肉」としか言えないものと同じであっていいわけがない。
そこまで思考が進んでしまえば、物質はあくまで土くれ・依り代であって、そこに宿った霊魂こそがヒトの複雑怪奇の根源である、という発想に至るのはあまりに自然ではないでしょうか。

こうして考えてみると、人間の思考の規模・世界観というものは文字通り視覚にすごく依存しています。
目に見えるものが限られる限り、目に見えないものへと想像を膨らませるしかない。
同時に、レンズや顕微鏡といった発明は視覚のグレードアップに等しく、イコール、思考と世界観の規模の著しい変化に直結しているのだと思います。

今回はあえていっぱい解体写真をのせました。
「解体者の目」による感覚、すこしは共有できたでしょうか。
写真が少なすぎて無理? すまんな。

それはともかくとして、解体もっとうまくなりたいので、狩猟以外にもなにかしら機会があったらみつけたいです。
こう書くとamphibianの作品履歴もふくめて絶対に「グロ趣味が昂じた末路」みたいに見る人がでてくると思うのですが、自分の中では「食べるため・生きるための活動」への志向であって明確に別カテゴリです。
自分の中では、グロはもっと、苦痛とか悲嘆とか無念みたいな、「生きているがゆえの怨みの情」を一生懸命増幅して書いているものです。
いくら死体(肉)と向き合ってもそういうのは出てこないし、むしろ書けなくなっていくような気さえします。
どこまで切り分けていっても物質は物質なんだな、みたいな。
その言い分こそシリアルキラーくさい? おいやめろ、そもそも解体行為を過剰に残忍にとらえるのは明確に差別的まなざしで……ああ……ただしさが……ただしさがあふれてゆく……!!

ただしさが危険値に達したのでこの記事はおわりです。
立場が変われば視点が変わり、考え方も変わるので、色んな立場に立ってみる体験は重要だね、ということで。
みなさまもひとつ、生き残りにお役立ていただければ幸いです。