【どこへも行けない、私の話】
ーーーー記憶はいつも、わたしを過去の隙間に突き落とす。
好きなひとが、いた。
その人は頻繁に、髪型が変わるひとで。
サロンのモデルとかしてしまうような、薄くも線の綺麗な顔立ち。古着が大好きで、洋服に愛情とお金をかけるひと。
よく、その人は前髪のセットを変えたりしていた。
私は彼の髪型が変わる度に、気が気じゃなかった。
色々な彼が見れるけれど、ほかの人達の目にもうつるから。人は変化に敏感だから。定期的に、髪型という外見に含まれる部分が変わる彼を、人はきっと見る筈だから。
けれど、そんな彼に常にドキドキと、心臓が甘く鼓動していたのも、事実。
ほんのすこし、別の話をしたい。
私は彼のセンターパートが好きだった。
気怠そうに世の中を映す、大きくはないけれど一重の切れ長な瞳がとても良く、見えるから。
私を"見て"くれていると、はっきりと分かるから。
「髪また変えたね」
両手で、彼の小さな顔を包み込むようにサイドの髪を触りそう言うと、彼は目を瞑ってまるで仔犬の様に口を柔げる。
「トリートメントもしてもらったから髪質も絶好調だよ」
「女の子みたいな事言うよねほんと」
彼の髪質はくせの無いストレートタイプで。男の人の髪の毛に対して私は綺麗なんて思った事ないけれど、でも、あの頃の私は、彼の髪が1番"美しい"と思っていた。言えることは、きっと、彼の髪だから。
私とは正反対に、容姿も良くて、洋服への拘りも勉強意識も高くて。私なんかじゃなくても、もっと多くの綺麗で可愛い女の子達を選ぶ権利がある筈であろう君が。私なんかを、ただ選ぶから。
尊くて、大切にしたくて、だから、美しいと思っていた。
「ほんとに好き」
「え、髪型だけ?」
「ぜんぶだよ」
君に触れている瞬間、わたしはなんだっていいと思っていた。
そばにいられるなら。
君に、その髪の毛に、触っていてもいい資格を与えてもらえるならば。
彼女じゃなくても、友達じゃなくても、なんだって良かった。名前がなくても、よかった。
傷も荒れも何一つない、綺麗な彼のおでこに口付けたいと思う。
嬉しそうに微笑んで、そうして私のミディアムヘアーの髪を軽く握るように触れる。そして、彼は言う。
「好きだから、どこにも行っちゃだめだよ」
神様、わたしはこの時、この世でいっとう欲しかったのは、彼だったと思うの、どう?
マフラーを巻いてくれた細長い君の手をよく思い出す。
普通の人じゃ着こなせないようなニットを当たり前のように、家着のように、華奢な身体に身につけて。寒がりなくせに、彼の家から帰るときは、必ず駅まで送ってくれた。かけたてのパーマが、ふわふわと、彼が足を運ぶ度に揺れていた。横顔を、ずっとみていたかった。
星の綺麗なあの日。
自分の笑ってる顔、そんな好きじゃないなんて言ってたけれど。
いつだって、すまして写真に収められた君よりも、わたしは君の笑ってる顔の方が好きだったよ。
髪型が変わっても変わらなくても、君という人間に、私はうまくは表現できない恋愛感情が、ずっとずっとあった。
君の、色々な自分を際限無く探す生き方に、とてもとても憧れていた。
無機質なコンクリートの集合体、無数の街頭が散りばめられた星のように光る、あの街で。東京で。
君は今何してるのかな、風邪ひいてないかな。その髪にふれるひとは、もういるのかな。
まだ、髪型変え続けているの?
冷たく澄んだ空気の中で、柔い風が私の髪を撫でた。
記憶はいつも、私を過去の隙間に突き落とす。
ーー君の髪にもう一度触れたい。願うなら、おでこに口付けて。温かい、と、嬉しそうに笑う君の顔が見たい。
あれからずっと、わたしはどこへも行けないんだ。
fin.
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