【死を友達のように想うこと】
わたしが大事だと感じたものは
この先も永遠だと思いたい
人生の内で、私はこんなことを、今まで幾度となく思ってきた。そして、これからも幾度となく思うだろう、と。
温かく居心地の良いその場所が、たとえ過去のものでも、
振り返って思い出せば、いつだって戻れるから。
だから大丈夫、きっとそうだよって、
未来の私がそう言ってる。
なんのこと?って、死ぬことは怖いものではないってこと。
かの有名なJ.K.ローリング作のハリーポッターの映画(最終作かな)でも、"死を友人として"なんてワードが出てきました。
あなたと私は、今この時代に生きていて。きちんと毎日呼吸をし、そして必ず、いつか死ぬ。その事実は永遠として変わらない。地球は決して私達からは見えないように壮大に、そして静かに回り続け、宇宙は暗闇に沢山の煌めきを湛えながら、常にそこに有るけれど。
この世界に生きるどれほどの人が、自分がいつか死ぬということを想像できているんだろう?
私は。ふとした時に、そう、例えば終電の車内で疲れ切った多くの人間を見つめている時。バスタイムで頭を濡らしシャンプーをして洗っている時。仕事で立ちっぱなしで痛みを感じ、浮腫む脚に意識がもらわれている時。目の前で大切な人達が笑って話している時。空を見てその綺麗さに見惚れている時。息をした時に、冬独特の乾いた香りを吸い込んだ時。眠るときに、眼を閉じる時。
そんなふとした時に、私はどうしようもなく死を身近に感じる。感じる、という表現は可笑しいのかもしれない。常に意識はしないけれど、背中合わせでそこに有る死を想う、といった表現が私とっての正解かもしれない。
終電の車内で、あと100年もしない内にここにいる全員がこの世にいないんだ、とか。
バスタイムで頭を洗っている時に、あと何度私はこの身体を自分で洗う、といった動作が出来るんだろう、とか。
仕事で浮腫む脚を見て、死んだら浮腫みとかはあるのかな、いや無いよな、とか。
目の前で大切な人達が笑っている時、あと何度この光景を私は目にすることが出来るんだろう、とか。
空の美しさを見て、地球はいつ死ぬんだろう、とか。
眠る時に、死ぬときもこうやって、瞼を閉じたら暗闇なのは同じなのだろうか、と。
そんなふうに、毎日毎日、私は死を想っている。
いま動くこの手も、美しいものを見て美しいと感じることのできるこの眼も、誰かに焦がれときめく心臓も、いつか無くなるし、不条理ではなく順当な死であれば、燃やされ灰になる。
想像しただけで、私は不思議でたまらない。
今ここにあるのに、感じる今は、永遠ではないということを、あなたは知っていただろうか
死ぬことは怖くない。ただひとつ寂しいことがあるとしたら、それは、死んでしまったら愛しい家族や友人に会えなくなるということ。
そう、あなた達のこと。
だから私は会うたびに、今世一度きりのつもりでいつも丁寧に、ううん、丁寧でなくても、本音で話をし笑うし見つめる。
恋をすればそのひとの手を握る度に、これが最後かもしれないと思って感触を噛み締め、胸いっぱいに広がる愛情と切なさに本当に息が苦しくなる。
だからね、つまりはどうか一緒に、
死を想いながら、ほんの少しでも日々を丁寧に穏やかに、優しい気持ちで生きませんか、ということ。
こんな混沌としていて、たまに息苦しくなって、自分の夢とか愛とか色々なことが、霧に紛れて見えなくなってしまうことがある時代だからこそ。
いつか死ぬのだから、嬉しいことも悲しいことも、良いこともわるいことも、全て全力で向き合うのが絶対、絶対、きっといい。
そして、私は友人のように恋人のように、死を想う。
それだけで、自分に降りかかる優しさの煌めきも、悲しみの雨も、全てが愛しく感じることができるんだ。
だから私は晴れの日も雨の日も好き。日常での灰色な気持ちも、きちんと受け止められる。
私にとって、必ず来るいつかの死と、あなた方に会えなくなる悲しさに比べれば、いま踠きながら時々寂しさに襲われ、ふと涙する夜も、目標や夢を思い手が届かないんじゃないか、なんて考えて落胆する気持ちなんて、いくらでも我慢できる。
私が大事だと感じたものは、この先も永遠だと思いたい。
それが希望であり、死ぬ時に心に握りしめる宝物なんだと思う。
あなたは死をどんなふうに思っていますか。
機会があったら、教えてほしい。
美味しいコーヒーでものみながら、私はきっと、静かに聴くと思うから。
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