重そうで軽い、遊びと学びの寄り道だらけの人生紹介から... ①
ストックホルムでの生活が人生の半分以上になってきた。
生活の場が大きく変わっても、意外といつも変わらない自分の関心と興味。
その中心にあるのは自然と人との出会いかもしれない。
それとその時々の関心・興味を、生きていくための仕事の中心に据えるのではなく、自分の時間(余暇)の部分と結びつけて味わえるようにデザイン出来てきたので、自分の時間を納得して過ごすための引き出しを多く持てるようになった。
アップダウンの多い人生も、終活という言葉が気になりだす時期突入。
自然と人間の付き合い方に疑問を持ちつつ、自然の中で遊ばせてもらった結果で身に付けた野外生活に関わるいろいろや、それを可能にしてくれたスウェーデン社会の在り方を、自分がまだ思い出せている時に少しでも関心を持って下さる方々にお伝え出来ればというのが、このNoteへの思いだ。
・人生後半部のスウェーデン生活に行きつく前に、自分の価値観の多くを形作った日本時代・スウェーデンにつながる変革期からお付き合いを🙇♀️
日本で芽生えた二つの視点
・自然への渇望 🏞
転勤族の父の都合で住居を転々とし、子どもたちの学校生活に合わせて父のみが転々とする形で落ち着いたのは横浜で、実は幼少期に自然豊かな環境で目いっぱい遊んだ記憶がほとんどない。
その反面、小児期から思春期にかけ、イタイイタイ病・水俣病・四日市ぜんそく等の公害問題を如何に解決していくかの社会の流れと、人間が生み出した物質の影響を伝える「沈黙の春」や自然界の有限性を訴える「成長の限界」といった名著に遭遇し、自分の自然体験の無さに漠然とした不安を抱えるようになってしまった。
そんな漠然とした思いで農業開発系の学部に入って、田植えに始まり免許もないのにトラクターを運転して木にぶつけたり、実験のためのトノサマバッタを虫取り網で捕まえたりしている内に、どんどん自然と繋がる世界に足を踏み込んでいった。
・一つ目のきっかけと視点 🏕
勉強、実習+きつさを知らずに入ってしまった大学体育会の武道部。
それらをつぎはぎする毎日はあっという間に過ぎゆき、新たな時間の余裕が出てきた頃、YMCAのキャンプの手伝いの誘いが友達から入ってきた。
何も知らずに飛び込んだ世界。
それまで全く縁のなかった、ボランティアとして子どもたちと関わる体験自体は楽しく新鮮で、のめりこんでいった。
野外活動の中でも、自然の中で自分たちのできる遊びを探して挑戦する事を目的に、月に2回子どもたちと集まり、1回目は何をするかを話し合い、2回目はそれを一緒に実行するという「冒険クラブ」にリーダーとして所属し、大学の勉強も疎かになるほど熱中してしまった。
意見を出し合い、自分たちで決め、幾分危ないが付きまとってしまうような遊びを集団で実行していくといった経験が無かったので、普段はあまり付き合いのない他のリーダーと責任分担し協働して冒険できることを味わえたからのめりこんでいったのだろう。
そういった若いリーダーと子どもたちの冒険は、実はYMCAという組織の後ろ盾があり、グループを統括するノウハウを持った職員の方々がいらっしゃたからこそだ。
職員の方々が、社会性のない若いリーダーたちが子どもたちをうまくリードしていけるよう、いろいろな研修を企画してくれていた。
そのなかで、活動を野外で行うのだから、そのベースとなる自然のことも知っていこうと、自然保護協会の自然観察指導員の先生の研修が行われ、それが次の視点へと繋がって行った。
・2つ目の視点
大学で自然に関連する勉強をしていながらも、自然の中で子どもたちと遊ぶ可能性の豊かさが中心になってしまい、その楽しさを生み出してくれる環境にあまり目を向けず自然が主役とはなっていないことに、研修で気付かされた。
指導員の先生の投げかけと説明で、自分の立っている場所の見方が変わってくるということを体験し、自分が大学内外での実験・実習で知り得た知識をキャンプの中に組み入れることができないかと考えるようになった。
まだ環境教育という言葉が一般的になっていない時期で、どこにどういう風に向かっていけばいいのか、全く見当がつかない。
冒険クラブに所属しながら、自然保護協会での自然観察指導員の研修を受け、自然観察会を開催する機会を持つようになり、勉強・仕事以外は野外で家にはほとんどいない生活を長く送っていた。
野外活動・自然観察の2足の草鞋を履きだしたのは大学4年ながら、そういった生活を長く送れたのは、奇跡的に卒業した大学が職場となったため、会社よりも自分で働き方をコントロールしやすかったからだろう。
仕事と共に、休みは野外活動・自然観察会活動が加わり、それ以外にも予定が空くといろいろな自然環境を知ろうと山登りをし始め、どんどん行動範囲が広がった。
それができたのも大学時代に鍛えた体力があったからなのだが、そのことが慢心を生み、強制的に生き方を変えなければならないほどの変革期へ繋って行ったのは次回へ続く。