重そうで軽い、遊びと学びの寄り道だらけの人生紹介から... ③
ストックホルムの今に繋がる部分を書こうと思いつつ、あっという間の1か月。
一番気持ちの良いここの夏には、コンピューターの前に座るのをつい忘れてしまう。
スウェーデン社会との邂逅と変遷
前回、インドでの修士を終え、日本に戻る前に立ち寄ったスウェーデンとフィンランドの体験が、大きくその後の人生を変えてしまった事に触れた。
大学院終了後日本で婚姻届けを出し、六本木のスウェーデン大使館に在住ビザ申請を出したのが6月。夏休みにかかると何事も時間がかかってしまうのを気付けなかったほど、スウェーデンについてはあまり知らなかった。
それでも、彼が働きながら学んで手に入れた保育士の資格を、日本社会で活用できるとは思えず、私がスウェーデンにすむ方が可能性が広がるかもという野望を胸に、家族を作ることを目的に飛び込むことに…
それが無謀だったとすぐ気付かされるも、後の祭り。
スウェーデン社会での0から始めた自分の人生の足跡をザクっと紹介。
-スウェーデン社会への入り方
インドで身に付けた英語を唯一の武器に住み始めたストックホルム。
市民として生活するのに必要な背番号を得るために、先ず登録のために向かったのが役所ではなく税務署だった。
生活にかかわる多くの事柄に税金が使われているので、当然のことかもしれない。
ここで家族を作るにあたり、二人とも移民だったので、子どもができることを思って彼はフィンランド国籍からスウェーデン国籍に変えていた。
国籍を変えることは紙上の問題だけと彼のハードルは低かった。
それに対してなかなか落ち着かなかったのが名前。
どちらの名前を共通の名前にするか、どちらも自分の名前を変えたくはなく、別姓の道を選んでともかく登録。
登録1週間後にパーソナルナンバーが送られてきて、一気に物事が動き出した。
・先ずはスウェーデン語を無料で勉強できるSFI(移民のためのスウェーデン語)の受講に登録。
・日本の免許証の書き換え。日本の運転免許の質の良さは認められているので、入国から6か月以内(その当時)であれば、再教育無しで書き換えてもらえたのはラッキー。免許証は身分証明としても使える便利もの!
・子どもができると、親に支払われる養育費などは、給料額に応じて支払われると知ったのと自分のお金が欲しかったので、先ずは働かねばと職探し。
スウェーデン語が話せずとも英語ができればと選んだ仕事は、近くにあった病院の掃除婦。掃除の仕方を英語で説明を受ければ、人がいない所で仕事をして話す必要がないのだから、当時の私にはもってこいの職場だった。そして、働くことで一気にスウェーデン社会への入り口が開いた気もした。
ストックホルムに来て3週間後には、人々が職場に溢れる前の早朝の掃除、片付け、午後にはスウェーデン語の授業というルーティンが出来上がっていた。
😅余談:パーソナルナンバーは生年月日6個と一人を特定するためのバランスナンバー4個でできている。
いろいろな手続きには、パーソナルナンバーがつきもの。特に初めの内は名前よりこれを聞かれることが多い。すると、生年月日が明白なので、ピクッと眉が動いたり、エッという顔をされたりすることがあるのは、珠にキズかも。
-スウェーデン語との格闘
英語ができれば生活にはほとんど困ることが無い。でも、仕事をもって家族生活を送ろうとするならば、スウェーデン語がそれなりにできなければ可能性が広がっていかない。
言葉ができないハンディを乗り越えないと、きちんとした仕事に辿り着かない時、SFIで無料のスウェーデン語の勉強が受けられるのは本当に助かった。
その上、私が通っていた30年ほど前は、授業に出る間は働けないからと、授業時間数に応じた補助金が出たのには本当に驚いた。
学んでお金までもらえる(すぐに廃止)!
基礎のSFI・発展クラスを終えても、スウェーデン人と労働市場で戦えるほどのスウェーデン語力には程遠い。
その後は、コミューン(地方自治体)の成人学校KOMVUXでのスウェーデン語に続け、高校卒業レベルのスウェーデン語レベルを目指すのが一般的。
このスウェーデン語レベルをクリアしないと、キャリアアップを図るために高等・専門教育機関で勉強するのが難しいので、けっこうみんな必死にこれをとりあえずの目標に頑張った。
ただ、この初・中級レベルのスウェーデン語の勉強さえも、場所・内容・方法にいろいろありすぎて、自分の先行きや現状に応じてどんな風に選んでいこうかと先行きが見えにくい気分になるほどだった。
自分のための学びの場なのに、社会の仕組み・動きがアバウトなので、どうも自分のコースデザインが頭に浮かんで来るはずもなく、粛々と他の人と比べずに自分のできる範囲に撤するだけにしていた。
幾分、記憶力に難あり😵、働きながらのスウェーデン語学習で、高校卒レベルのスウェーデン語に達するのに実は10年くらいはかかってしまったかもしれない。
大分立ってわかってきたのは、いろいろな背景をもってスウェーデンに入って来た人々の学びへの様々なニーズに対応できるよう、いろいろな選択肢が用意されている事だった。
それを掴むのをナビゲートしてくれるのは、自分のやりたいなのだろうと気付くには時間がかかりすぎた。
-生涯学習社会
先ずはハンディのあるスウェーデン語の学習サポートを無料で受けることで、スウェーデンの生涯学習社会の洗礼を浴びる。
自分に足りなかったり、必要と思える部分を社会のサポートを受けての学びで仕入れて行けば、より良い仕事に結び付けていけるという流れがすんなり伝わってくる。
また、SFI→KONVUXとスウェーデン語の勉強の仕方の流れに乗っかっていくと、スウェーデンの教育制度が年齢にかかわらず、勉強したい人がいつでも・だれでも・どこでも勉強できるように迎え入れる成人教育も含む体制になっているのだと気付かされる。
わが夫もスウェーデン社会で基礎教育から保育士教員資格まで、働きながら長い時間をかけて取得していったことを以前触れたが、学ぶものの質や期間に応じて、仕事の中身や場所を変えながら、少しずつ教育制度の階段を登って行く感じだ。
私の場合のスウェーデン教育制度の使い方は、既に高等教育を終えて入ってきているので夫とは流れが違い、その関わり方が大きく3つに分けられる。
【I】は、スウェーデン語・一般常識習得期。
SFI, Komvuxなどで、スウェーデン語を始めとして0から、スウェーデン人たちと成人教育の場で一緒に学べるまでの土台作り。
スウェーデン語は最初から媒介語無しで学んだが、スウェーデン語で話せる相手はクラスの先生、移民仲間の級友、夫と限られていることもあって、母国語の影響が色濃く出た“移民のスウェーデン語”を使っているんだろうと思うことは今でもある。
それでも、SFIで出会った他の文化を背景にした人たちとスウェーデン語で繋がり、間違いがあってもどんどん自己主張をするような態度に接していると、何でもありなんだと錯覚させられてくる。
そんな風に考えられたのも、働きながらスウェーデン語を学んでいたからかもしれない。
スウェーデン社会で必要とされる知識や資格を持たない移民は、①元々ある知識・技術を再教育を受けてスウェーデン的に修正するか、②専門・高等教育機関で学べるスウェーデン語力を付け全く新しいものに挑戦することになる。
母国で教員をしていた、医師だった、弁護士をしていた…としても、そのまますぐに同様の仕事はできず、①の場合は持っている資格の教育内容を提出して、それにはどのくらいの価値があるのかを判定してもらう(30年前以上とは大分組織の内容が変わっているよう)。
私の場合、あまりに狭い範囲の勉強をしてきてしまったので、勉強してきたことは認めてもらえたけれど、仕事に使うにはつぶしが効かない感じ。
おまけに、スウェーデン語能力に幾分伸びしろが足らず、②の方向性を見つける方の舵取りもあやふやになってきた。
【II】専門性習得期
新しいものに挑戦するにしても、幾分自分にも知識や経験があり、仕事にもつきやすく、そして自分の関心に沿った職種にどんなものがあって、何をどのように勉強すればいいのか、なかなか道筋が見えてこなかった。
そんな時に助けになったのが、Komvuxの校内でのstudie- och yrkesvägledare(勉強・仕事のガイド員)という職種の人からの情報サービス。
自分がどんな勉強をしてきて、どんな関心があるのかの相談をすると、様々な情報の道筋が示され、あっという間にいろいろな選択肢が見えてきた。
そんな中で興味を引いたのが、Folkhögskolanという成人教育の場。
デンマークに端を発しているが、スウェーデンの近代化と共に発展し、自分の生き方を考えるような部分のある、知識を磨く高等教育の場とは明らかに違うスウェーデン的な学びの場の存在。
折角ならスウェーデン的な学びの場を体験しつつ勉強しようと、ストックホルム大学で1年のスウェーデン語コースで学びなおして準備。
そして、子供や大人の余暇の時間に関わる職場で働ける、Fritidsledare(余暇活動指導員)のコースがあったので、仕事をSaveし奨学金を借りて、Folkhögskolanでの2年間のコースで資格を取った。
🤭この際の目から鱗が落ちるような体験は、別の機会に紹介したい!
【III】知識・体験充足期
資格を取って、それが使える職場に正式に雇用されて働くようになったが、状況に応じて職場を変化させていく中で、自分の働き方や仕事の中身をいかに充実させていけばいいのかを常に考えていた。
職場で、常に研修の道が用意されていたこともあったが、私が自分のやりたいこととして関わりたい仕事領域が新しく、自らが働き方を開拓していかなければならないような所があったからだろう。
この頃には専門・大学で勉強できるスウェーデン語の要件はクリアしていたけれど、次に立ちはだかったのは何と英語!
高等教育機関での入学はAntagningenという組織に集中して振り分けられるように変化し、私の英語能力はスウェーデン的な基準で判定されていなかったため、また関心のあることを学んでみようと思ったときには、英語での修士修了は何も価値を持たなくなってしまっていた。
ここで引き下がるのも癪にさわるので、60歳を前にしてKonvuxでの半年の英語コースに参加して、高校卒業程度の英語力試験をパス。
晴れて、いろいろな大学で行われる、自分の関心・興味に近いコースを選んで勉強できるようになった。
自分のための学び
特に働き方を変え、個人事業主として働き始めてからは、知りたいことが増え始めいくつかのコースにお世話になった。
そのほとんどが、子どもたちの遊びや学びに関わる諸施設で働く人々が、自分のスキルアップにやってくるといったもので、自分の知識・経験などが十分試されるような場でもあった。
リーディングリストにある理論的な文献は個人で読み込み、月に一度くらいある土日のスクーリングで、ディスカッションやワークショップ・視察・実習などを行うと共に、自分の学ぶ目的に合わせたプロジェクトを立ち上げてその結果を最後に発表といった感じが多かった。
そのコースで学んだものを仕事の現場にどう反映させていけるのかが、参加者のモティベーションになる。
そういった専門性を鍛えるようなコースが大学の中にあることで、教員たちも外部とのネットワークができたり、新しい視点を得ることもできるようになる。
そして、現場を持つ人たちと学びを進めることで、初めて自分のための学びのありかたが腑に落ちていった。
そういうコースの常として、指導する教授陣が初めに「教える教わる側が協力し合って、良い授業を作っていこう」と最初に言うことが多い。
対面で、直接体験的な内容の授業をする際に、「建前の理論はわかるけれど、実際の運用の時のこんな事例が出てきたらどんな風にしたらいいか…」といった質問が出されることで、授業の流れが変わっていったり、参考図書にある事例以外の可能性の質問をすることで新たな課題が生まれたり…と、教授陣との応え合いや現場と繋がった実践的やり取りから、自分の欲しい答えが導き出されてくる。
自分の知りたいことのための答えは自分で見つけていくのだけれど、それを助けてくれる教授陣の持つ引き出しの鍵を開けるために、質問や投げかけ無くしては豊富な引出しの中身を知らないままで終わってしまう。
ほとんどの参加者は得た知識を現場に戻すことや質の向上が目的なため、コースで触れられる理論的な事を問うテストはなく、自分の企画したプロジェクトがどれだけ目的に叶った内容かといった事でコースの評価がされる。
😅余談:子どもと接することのできる職場で働くことを目的とする人たちを対象とする様々なコースで勉強してきて苦手だったのが、グループワーク。
どの学びの場でもグループワークの呪縛からは逃れることができず、もう少し訓練できていればと、そういった場を体験することができなかった自分の義務教育期を残念に思った。
やるきを持続させ勉強を続ける家庭事情さえ整えれば、勉学の道はいつでも開かれる。
ただ、スウェーデン人も混じった普通のコースでの勉強は、働くのが恋しくなるきつさで、これを終えれば仕事にプラスになるかもしれないというニンジンや友人がいなければ、越えられない壁のようだった。
そして、授業は無料であっても生活するのにはお金がかかるので、仕事と勉強をどのくらいのバランスで行っていくのかも、自分のいるライフステージの状況に応じてデザインしていかなければならない。
奨学金制度
「やる気さえあれば勉学の道に繋がる」を文字通りのものにするサポートをしてくれたのが、CSNという奨学金の制度だった。
永住権のあるパーソナルナンバーを持った住民であれば、借りるのと貰える部分からなる奨学金制度を利用できる。
【II】専門性習得期に、丸2年間スウェーデン人の級友とどっぷり学ぶ道を選んだ時には、土・日に行える仕事以外は働けないのはわかっていたので、このCSNのお世話になった。
ただ、奨学金を借りるのと貰える部分両方を確実に利用しようとすると51歳までとなっていて、51歳から60歳の間になると額がどんどん減少していくことになるのがわかり、この時期の開始に神経を使った。
(案外、年齢が行っても奨学金が受けられるというのに😲)
幸い、アルバイトが少しでき、1人暮らしではなく、子どもがいないという状況だったので、奨学金の貰う分だけを利用したが、勉強・仕事・家庭で忙しくしている身には十分な額だった。
-仕事の掴み方
ここまで、自分が教わる側でたどった道のりを紹介したが、これらは病院での掃除婦に始まるいろいろな仕事といつも絡み合っている。
何の繋がりもない所に、飛び込みの直談判で仕事を勝ち取ったのは最初だけ。その頃はまだ、履歴書が無くとも仕事が得られるほど、スウェーデン社会にも少し余裕があった。
😅余談:その後は履歴書を書いての職探しばかりだが、履歴書の名前が外国名だとなかなか面接まで辿り着きにくいというのは良く聞く話。
仕事を始めに、どのように道具を使い、どう身体を動かして掃除をするかのビデオでの説明があり、きれいに管理されている道具使用での仕事はとても楽だった。
指示された場所が終わったら次を指示すると言われ、サクサク仕上げて「次は何?」と聞くことを繰り返していたら、なんと「指示された部分を仕事時間の中で仕上げればいいから、ほどほどに!」と言われてしまう。
余りに一生懸命やりすぎると、仕事配分のバランスが崩れてしまうし、管理する方も新たな仕事を作り出さなければならないからだったよう!
基礎のSFIを終えたくらいで、掃除婦から日本語書店へ転職したのは、仕事に飽きたというより、だれもいない所を掃除するのでだれとも話すことのに物足りなさを感じたからだった。
日本人社会との出会い
最初の頃は、夫に日本人の知り合いがいるわけでもなく、社会が俯瞰できるようなネット社会もなかったので、日本人社会の存在が全く見えてこなかった。
偶然にもSFIのクラスでスウェーデン人と結婚した日本人女性と同窓になったことが、大きくその当時のストックホルムの日本人社会への門戸を広げてくれることに。
食べ物・医療・教育といった自分の生活に切実に直結する情報が欲しい時には、同胞からの情報に勝るものはなかった。
だからこそ、自然と移民たちの何らかの繋がりがどうしても作られてくるのだろう。
どこで日本食が手に入るのか?おいしい日本食レストランはある?といった情報を知っていくうちに、ストックホルムにも日本人が集まる通りがあることが分かってきた。
その通りの一方に日本食専門のお店があり、その反対側には朝日新聞・日本経済新聞の国際版の代理店ともなっていた日本語書店があって、土曜の午前中になると、食や新聞・本を求める日本人が集ってきていた。
ある日、日本語書店に行ってみると、“店員募集”の張り紙が!
この頃はまだ自分がやりたいことのために仕事の中身を考えるといった余裕はなく、ちょうど掃除婦からの転職だけを考えていたところだったので、渡りに船と、スウェーデン語での接客に不安を抱えつつも履歴書を出した。
それが、10年もの付き合いになるとは思ってもいなかった。
😅余談:1990年代後半くらいまでは、ストックホルムには日本の商社やメーカーなどの駐在員家族のいる日系企業が多数あり、高額でも食品・書籍などの在留邦人のニーズは高かった。
まだインターネット環境は一般的ではなく、情報のやり取りは電話・ファックス主流で、新聞も飛行機で輸送されてくる日刊紙を受け取り顧客に配達し、そのルートを使って運ばれてくる会社への従業書類も届けるといったDHL的な仕事が成立していた(この書店は閉店)。
生活の中にIT環境が入って来たことで、たった10年くらいで人流と物流が全く変わり、ストックホルムの激変した日本人社会の在り方を経験したように思う。
毎日、数百キロの新聞・ドキュメントの仕分けをし、事務処理をし、たまに接客という仕事が中心。
ただ、日本からの情報を求めて集まる日本にルーツを持つ人々と接する中で、知人も増えていった副産物として、書店以外での仕事の話が入ってくるようになった。
1つの仕事にこだわらず、副業をいくつか持つ人も多いからだろう。
その一つが、土曜日のストックホルム日本人補習学校の教員の話。
日本語の教科書を使っての指導要領に基づいた授業といったものに全く興味がなかったけれど、その当時の現地校長先生の「指導要領にこだわらず自由に教えてください」という言葉につられて片足を踏み入れ、気がついたら19年ほど付き合ってしまった。
夢中になれるほど、そこで出会う複数の文化と向き合う子どもたちや保護者の方々との応え合いが、私を大きく成長させてくれたからに他ならない。
補習校で教えている噂が広がっていくと、今度は日本語を教える仕事が舞い込んでくるようになった。
学校組織の中で日本語授業に関わるルートもあるが、日本のカルチャーセンターのように自分の興味・趣味としていろいろな分野のものをお金を払って勉強できる民衆のための学習組織があって、そこでの日本語クラスは教育・指導経験のある人たちのとりあえずの仕事場となることも多い。
事程左様に、ストックホルムでの滞在年数が増えるにつれ、仕事は口コミで入ってくることが多くなっていったが、そのことが自分に子どもがいないながらも子どもたちが中心の学びの世界にいろいろな形で入り込んでいくことのきっかけを作ってくれた。
月曜~金曜は書店、土曜日補習校、夜の日本語クラスみたいな掛け持ちの仕事をしていて、時間の流れが麻痺してしまい、気付くとそんな生活が10年近くなろうとしていた。
ふと、ストックホルムにいながら、日本語が主の仕事ばかりをしていて、日本語の本に埋もれている自分の姿が脳裏に浮かぶ。
スウェーデンの自然や社会の良さを知りたかったはずなのに、何も見えていないのではと思いだし、思い切って書店を辞めてFolkhögskolanでの学びを始めたのは、前述の【II】専門性習得期の時だ。
コースでは数回かなり長い実習があったけれど、その実習先は自分で探してくる。
場所を探すのは大変だけれど、反面自分で働いてみたいと思う所の仕事場の雰囲気を体験してみることができるので、その機会をフル活用しなければ勿体ない。
日本人は言われたことをきちんとこなすことに長けているので、実習をしたことが正規の仕事に繋がることが多く、私も2番目に入った実習先から、卒業後に空きができたからと声をかけられて、正規職員として働く道が開けた。
その後いろいろな働き方をしたけれど、50代後半からは関心があることのために働きたいという思いが強くなり、組織の中で働くのではない個人事業主としての働き方を選ぶようになっている。
それができているのも、個人事業主でも、人との繋がり・応え合いがあって、口コミで参加者同士が繋がり合うような小さなネットワークがあると思えるからだろう。
🙇♀️お詫び:ストックホルムでの生活をザクっとまとめるつもりが、どんどん背びれ尾びれがついて重くなってしまった。
それでも、個人的な学びの部分と、公的な仕事の部分しか書いておらず、何を大切にしていてそれをどんな風に形にしているのかといったところ(自然と私の関係)が全く紹介できていないので、次回に繋げたい。