惜しみなく愛は奪う
20年も前に熱心に読んだ本だ。読み直してみるとなかなか難解ですんなり頭に入らない。文字の上を行ったり来たり、まるでアプト式の電車がジグザグと山を登っていくようになんとか読み進んだ。
これは、有島武郎の著した愛の本質についての論文である。愛は与えるもの、という通説の逆をついた書名は多くの人を引き付けた。20年前の私もたぶん、題名から読んでみようと思ったに違いない。だがこの本は難しく、読み進んでもなかなか本題には到達しない。きちんと理解しようと思うと頭が混乱する。でもなにか心惹かれて不思議な感覚のまま読み進んだ。
彼は言う。私は私のもの、私のただ一つのもの、私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。意味を表すために案じ出されたのに、言葉は不完全な乗り物だ。そして不従順な僕で私たちは言葉のために傷つき裏切られる。やむおえず言葉に潜む暗示より多く頼みをかけなければならない。言葉の後ろに隠れている暗示こそは、裏切ることなく私を求めるものに伝えてくれるだろう。
私には生命を賭しても主張すべき主義はない。主義というべきものはあるとしても、それがために自分を見失うまでに没頭はできない。弱い私は結局自分に返って来る。逃げ回ったウサギが惨めな壊れやすい土の穴に返って来るように。
これは作者の文をわたしなりに解釈して書いたもので、原文よりは分かりやすいのでは、と期待する。あ、文が原文に引きずられていますね。
16章まで進み、やっと本題に入る。カナリヤを例にとって語られる部分は、分かりやすいので紹介すると
カナリヤには、愛するがゆえに、美しい鳥かごと新鮮なエサと愛撫を与える。これは、「与える」行為なのか。私が私の小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥は私に摂取されて、私と同化する。私は小鳥とともに喜び、悲しむ。私と小鳥は外見は別であっても、私は小鳥自身なのだ。私は小鳥を生きるのだ。
愛は惜しみなく奪い取るけれど、奪われた相手は何も失わない。愛は一方通行でも良く、場合によっては相手がそのことを知らなくても構わないようだ。互いに奪い合うことが成り立った場合、恵みは二倍になる。印象的だったのは、自分の中に愛の捕虜の大きな群れを発見した、というくだり。それは芸術創作の素材として一生かかって表現してもなお余りある、外界から奪い取った愛。
さらに、愛が自己を表現した結果が、創造であり芸術だ。と結ぶ。
残念ながら、まだ有島武郎の言おうとしている意味の半分ほども理解できていない。けれども、確実に言えることは、この本を理解しよう、感じようと読んでいた時間は、悩みも悲しみも完全に忘れていた、ということだ。
惜しみなく読書は奪う・・・私は読書に奪われた。
おわり