世界で一番よく眠れる場所、あります【ショートショート】
「世界で一番よく眠れる場所、あります」
帰り道、見覚えのない看板に思わず足を止める。
多忙ではないけれど、疲れの抜けきらない日々を送る私には看板の謳い文句がひどく魅力的に感じた。
好奇心に誘われて扉を開けると、バーのような造りの店内から女性の声が聞こえる。
「いらっしゃいませ」
真っ黒な髪を静かに揺らしながら店員がやってきた。
「表の看板を見たのですが」
遠慮がちに尋ねると、彼女は笑顔でうなずいた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
どうやらよく眠れる場所は店の奥にあるらしい。
一度私を振り返り、彼女はゆっくりと部屋の扉を開いた。
そこは、世界で一番よく眠れる場所と言うわりには、素っ気なく、まっしろでがらんどうな部屋だった。
「こちらのベッドをご利用ください。それではよい睡眠を、そしてよい夢を」
まるでアトラクションの見送りみたいと思いつつ、部屋に残された私は言われた通りベッドに入る。
徐々に照明が暗くなる。
眠れる気はしない、横になって少し楽になれたらいい。
すっかり薄暗くなった部屋に視線を漂わせていると、何かが動く気配を感じた。
気づけばベッドのすぐ側に誰かが立っている。
跳ね上がった心臓につられて目線を上げると、そこにはよく見知った、恋人の姿。
思わず口にした恋人の名に、彼は出会った時から変わらない笑顔を返した。
彼は私が固く握りしめていた布団を手にとり、するりと布団入り込んできた。
そうしてそっと抱き寄せられる。
ほとんど無意識のうちに彼の背中に手を回す。抱きしめ返す。
体温も、心臓の音も、何もかもが彼だった。
胸に顔を押し当てて、めいっぱい息を吸いこむ。
たった一呼吸で体中の酸素が入れ替わった気がした。
「お目覚めですか?」
ぼんやりとした視界にまっしろな天井が映る。
一瞬、どこにいるのか分からなくなるも、すぐに思考の焦点が合う。
「すみません!本当に寝るとは思わなくて」
「いえいえ。よく眠れましたか?」
「ええ、とっても。……その、彼が側にいてくれた気がして」
私の言葉ににこりと笑顔を作って、店員は答えた。
「ここは、世界で一番よく眠れるお店ですから」
その言葉は妙に人を納得させる響きがあり、起こったことをそのままの形で受け入れせてくれた。
「夢も見ないほどによく眠れました」
そう言うと、彼女は少しだけ目を見開き、再び微笑んだ。
「それは何よりです。さて、申し訳ないのですがそろそろ閉店時間でして。準備が終わりましたら部屋の外へどうぞ」
言い終えて彼女は部屋の外へ出た。
長居をしすぎたと申し訳なくなり、身支度を整えて部屋を出る。
カウンターにいる店員にお礼を伝え店を出た。
すっかり暗くなった景色の中、腕をぐんと伸ばす。さあ、帰ろう。
店から出てきた女性店員が、看板をひっくり返した。
新たに現れたのは「極上の夢、あります。」の一文。
「幸せに眠る人間の、夢ほどおいしいものはない」
歌うように彼女は口ずさみ、店の中へと戻っていった。
ピリカさんのショートショート企画にエントリーさせていただきます!
1200字ぴったり、余すところなく使い切りました。
というよりも、字数制限内に収めるのが難しかったです…!
本当に、読んでくださりありがとうございます。
ただただ、それだけです。
あとがきは長くなりそうなので、下の記事に追記することにします。