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優しさ

優しさについて考える、考えさせられる瞬間が急に降ってきまして、少し自分の考えを述べてみようかなと~


「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という映画で主人公の七森くん(七くん)が自分が童貞であることをからかわれたり(そもそも七くんはクイアなので恋愛には興味がない)、白城ちゃんがセクハラまがいのノリを言われたことに対して怒りを表していた。

私は日常に蔓延る無意識の差別に出会っても、「ああ、またこれか。まあそういう意見もあるからしょうがないよね」と怒りも悲しみも湧かない諦め。それを受け入れることをずっとしてきた。それが正解だと思ってた。世の中には色んな人がいて全員意見が違って当然。それらを受け入れることが優しさだと思っていた。自分でいうのもあれだが、私は"普通"とは少しずれた学生時代を過ごしてきた。その中で起こったトラウマや培われた人生観は"普通"とは違うし気持ち悪い、面倒くさいと思われても仕方ないと思っていた。

七くんの自分の守るべき大切なものを傷つけられたときは反論する姿勢と映画の他のシーンなど観て気づいたこと。それは、諦めて受け入れる優しさは自分と他に該当する人たち(七くんの場合で言うと他のクイアの人たち)を切り捨てる行為と同じなのでは?ということ。七くんの恋愛経験がないことを馬鹿にした人たちは無意識に七くんのパーソナルな面を否定する言葉を発している。大多数は恋愛をするし、そもそもノンセクの人に出会うことも少ない。無知が故の発言でそこに悪意はない。ただただ知らないだけ。だからこそ嫌なことは嫌と意見を交換することに意味がある。意見を伝えた後に相手が「そういう人もいるのか。ごめん、配慮がなかった」と無意識の差別に気付けば、今後同じようなことで傷つく人を減らせるかもしれない。対話したところで相手にも言い分があって、自分が見落としていた考えが現れるかもしれない。自分の意見と相手の意見をすり合わせ、理解し合うことこそ ”優しさ” なのではないだろうか。


対話には加害性が必ず付随する。自分も気づかないうちに傷つけていることもある。話し合いという手段を用いることでより関係性が悪化することもある。だけど私はあなたのことが知りたい。私のことも知ってほしい。”諦める” と "無関心"は表裏一体。あなたが話すことが苦手でなかったらぜひ!私とお話しましょう。

優しい人との対話で気づいた、生まれた無意識の過ちには寛容でありたい。
優しい人でありたい。私が大切だと思う人、モノを守りたい。


余談、今日食べた学食の能登ラーメンが美味しかった。中央大学は学食がおいしい。るんるん~





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