鳥であることを隠して生きる
私は鳥なんだと思う。
動物占いでもゲッターズ飯田さんの占いでも干支でもその他の占いでも私はことごとく翼の生えている動物が割り当てられている。
ペガサスで、銀の鳳凰で、酉年で、その他の占いではフクロウだったこともあった。
タイの曜日占いでは「日曜日」でふーんと思っていたら、「守護動物:ガルーダ(神鳥)」と書いてあり、やはり私は鳥なんだ…と思った。
職業柄も羽や翼や空には思い入れが強い。
私は人間の姿形をしているけど、本来は自由に空を羽ばたく翼の生えた何かなんだと思う。
前世が鳥だったのだろうか、それとも鳥に守られていたのだろうか、鳥使いだったのだろうか。
何にせよ空を飛べる生き物と縁が深いことには違いない。
人間社会で鳥である私が生きることはとても困難で苦しい。
自由にしていたい、色んなところに自由に飛んでいきたい、色々なしがらみなんて忘れてただただ上空で旋回していたい。
風を読み、季節ごとに居住地を移し、海を渡り、何も考えずに群れの一員として動き、悲しみのない空の上でただただ漂っていたい。
言葉を話し、空気を読み、苦しさや悲しみを味わって地面を踏み締めて生きていくのはとても辛いのだ。
以前「天気の子」という映画が流行った時に「天気の子の挿入歌のグランドエスケープを聴くと何故かあなたを思い出す」と言ってくれた人がいた。
びっくりした。
私は自分でも何故かその挿入歌が自分のテーマソングだなというような気持ちがあったからだ。
歌詞がどうとかではなく、あの挿入歌が劇中で流れる時、あの場面がそのまま私の中で「これだ」という気持ちにさせる。
うまく言葉にできないけれど、空に対しての思い入れとか自分の中にある切ない気持ちがあの場面・あの曲とバッチリ合ってしまった。
好きすぎるが故になかなかその映画を見返すことができないし、曲も気合を入れないと聴けなくなってしまった。
私の心の中に真っ白い平和の象徴である鳩が住み着いていて、何か型にはめられそうになったり、望んでいないことを強いられそうになったり、足枷や重荷を背負わされそうになったり、狭いケージに閉じ込められそうになると、私の中の美しく白い鳩が大暴れしてしまう。
私の中の鳩が傷付けられてしまうのではないか、私の中の鳩の自由が奪われるのではないかと思うとなかなか人のことも好きになれない。
一番大事なことは私の心の中の鳩が美しいまま、自由に羽ばたける環境だからだ。
人や物や環境を変えたらその自由さと健全さ、美しく整った平穏な精神まで乱されるのではないかと思うと怖くて足がすくんでしまう。
鳩の動揺は私の動揺であり、一度激しく損なわれた平穏は1日や2日で取り戻せるものではない。
私は凪いだ海、凪いだ空をこよなく愛している。
私の精神的な領域を異物に汚され乱されるのが怖いのだ。
同じ色・同じ温度・同じ匂いの他人なら受け入れられるだろうか。
いや、そんな人はどこにもいないのだ。
「みんな違ってみんな良い」のがこの世界だから。
私は繊細すぎる鳥で、人間社会は刺激や情報量が多すぎて疲れる。
私は「自分」を思い浮かべる時に、無意識に人間の私ではなくて銀の鳳凰と真っ白い鳩の中間の鳥を思い浮かべている。
しなやかで包容力のある力強い大きな白い羽を持った堂々と美しい鳥。
見るだけで神々しい鳥。
私はそれになりたい。
肩甲骨ではなく、鳥の羽が生えていたらよかったのにな。
「本当の私は鳥なの。」
と言って信じてくれる人はいるだろうか。
いたら多分その人は大分変わり者だと思う。
そもそも言わないけれど。
寂しがりやなくせに自由を失ったり、自分を制限されるのが怖くて他人と深く関わるのがキツい。
取り繕って生きてきて、どれが本当の自分か分からなくなって、自分の気持ちまでわからなくなって、人を好きになることもできなくなった。
人間との関わりがうまくいかない。
それはこの世界で生きる上では致命的なのだ。
私はもう人間であることに疲れてしまった。
ニコニコ笑って上っ面の付き合いをして、飽きたらバッサリ切り捨てる。
気持ちの悪い世の中。
来世があるのだとしたら、自由に空を飛べる鳥に戻りたい。
たくさん泣いて、目がパンパンになってもまだ人間として生きている。
今日も本当の姿が鳥であることを隠して生きる。