そんな天国なら、わたしはいいや
※この記事には、自分を傷つけてしまう人の話が出てきます。おつらい方は、読まないでください。
わたしたちの人生には、悲しみや憤りを感じる出来事がある。
時に、嬉しい事を塗りつぶしてしまうほどに、それらがわたしたちを圧倒してしまうことさえある。
最近のわたしもそうだった。
戸籍上の同性同士でパートナーとして一緒に暮らす、それは愛する人と一緒にいられる喜びでありつつ、その中には容赦なく向けられてくる教会の聖職者からの差別や、生活苦や、それに伴う精神的な苦しさ、アンフェア感なんかが横たわっていた。
それだけではなく、今までの人生でわたしを圧倒してきた悲しみが、古傷が開くように噴出した。
…気づくと自傷行為をしていた。
そうしなければ、その時は、いられなかった。
追い込まれた先の行為だった。
中3の時、両親が離婚して、私の事でいがみ合っているのを聞いた時も、めちゃめちゃつらくて、やっぱり同じようなことをしてしまっていたので、手は傷だらけだ。
だけどそれは死ぬためじゃなくてもがきつつ生きるためだったかもしれない。
最近、そんな話をポツポツさせてもらっていた、
一緒に聖職の道を志してきた先輩から連絡をもらった。
「自殺は、殺人である」
「自傷行為なんか、もう絶対やめてください」
「天国に行けませんよ」
おう。クラシカルというか。トマス・アクィナスの神学大全のようだねぇ。
結局かれのその言葉には何も返していないが、
自殺者が天国に行けず、
自傷行為をする人が主に拒まれるのなら、
先に駆け上がっていったわたしの先達たちも天国にはおられないわけだ。
わたしはそんな天国のパスを持っていたとしても、投げ捨てるだろうと思った。
天国は「キレイ」で「無傷」な人のサロンなのなら
キモチワルイから、いいや。
煉獄のフラットシート予約します(笑)。
と。
最近、教会からハラスメントの被害を受けて申立をしたところ、事実をもみ消されるという出来事があった。
都合の悪いものに蓋をして、口を塞ぐのは、組織にありがちなのかもしれないけれど、わたしは人間でも、組織でもなく、神様と目の前にいるパートナーを愛したいので、脱会することにした。
再度、先輩の言葉を受け止めるなかで
響いてきた言葉は
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
たしかに、腕を切ってしまったりするのは望ましい状態ではない。それは霊的にもメンタルヘルス的にもそうである。
だけれど、主はしんどい思いをしている人とともにおられ、わたしたちをふくめそうした人にいつくしみ、あわれみのまなざしを向けられるだろう。
「天国に行けませんよ」
「地獄におちますよ」
という言葉は
人を本当の意味で回心させ、導くものではないのだろうなと感じる。
北風と太陽の物語にも感じるところがあるが、
むしろ、ささくれだった心にあいた穴から
十字架を背負ってくださったイエスの愛が時間をかけて染みてくるような体験をしてこそ、
にんげんは、新たに歩み出すことが出来る、
そう予感した朝だった。
どうか、あなたの心にも
イエス様の愛が少しづつしみていきますように