しんどい時のためのロザリオ 苦しみの神秘

みなさんこんにちは。Megです。

きょうは、よくメンタルがしんどくなる私から、しんどいときの個人的なロザリオの祈りの黙想を分かち合わせてください。


今回は、そんなときのためのロザリオの祈り第一回として、

しんどいときは余計しんどくなりそうだからと敬遠される気がする

苦しみの神秘を恵みの時間にするための試みです。


信仰を持っていたって、うつになるけどそれは100%悪じゃないし、生きているわたしたちのいのちの価値には傷をつけられない。それが人を100%乗っ取っちゃうことはないのだと、わたしは信じています。


そんな時の祈りを考えてみました。

一連が主の祈りと10回のアヴェ・マリアの祈りと栄唱だと大変な人や忙しい人のために短縮版のミニロザリオもあるようですね。

珠数を教えてくださった方がいらっしゃったので、作ってお分けしたいです。感謝!


今回はおもに主の祈りの前の黙想の部分を分かち合わせていただきます。

イエス様に語りかける祈りになりました。

祈りかたは、ご自分に合ったしかたにされてください。


では、ぜひご一緒に祈りましょう。従来の、あるいはカトリックの公式のお祈りよりもだいぶ大胆になってしまった部分もあるので、ええっ?…と思われる方もあるかもしれませんがよろしければ。


第一の神秘 

イエスはゲツセマネの園で苦しまれる

わたしは死ぬばかりに悲しいといわれたイエス様

孤独の中、眠ることもなく苦しまれたイエス様

あなたほどの苦しみはないのかもしれません。

でも、わたしも苦しいです。

死ぬばかりに悲しいし、眠れません。

わたしは、あなたの苦しみを他人事ではなく心と体で受け止める者です。

あなたはわたしを愛をもってご覧になってくださいますが、

わたしもあなたと共に起きて苦しみつつ祈る者です。

わたしといっしょにいてください。わたしもあなたといっしょにおらせてください。


第二の神秘

イエスは鞭うたれる

イエス様、あなたは人々に身体を痛めつけられました。

どんどん傷ついていくあなたの姿を思い浮かべると、つらくなります。

しかし鞭でうたれるあなたのまなざしは、あなたを鞭うつ人ではなく、

ここで苦しみつつ祈っているわたしにいつくしみのまなざしとして注がれています。

イエス様、あなたは言われました。「この小さいもののためにしたことは、わたしのためにしたのである」…そうならば、あなたはこの苦しむわたしの中で、今もこの世で苦しんでおられるのでしょうか。

心だけではなく、頭だけではなく、身体にさまざまにあらわれてくる不調。どうか、顧みてください。

これはあなたがわたしを見捨てられたからではなく、あなたが最も近くにおられるしるし。

わたしのこの苦しみを、あなたにささげます。どうか、受け止めてください。


第三の神秘

イエスはいばらの冠をかぶせられる


イエス様、あなたは侮辱され、精神的にも苦しめられました。

わたしたちの心の内外にも、そんな出来事があります。

時にはわたしのまわりにわたしを侮辱する人が実際にはいないときでさえ、

わたし自身が自分の心をいじめてしまうのです。

どうかこんなわたしをあわれんでください。

あなたはただその苦しみを受けることによって内的な強さ、しなやかさを示されました。

わたしたちには変えなければならないことを変えていく勇気と、

自分で自分を侮辱しないことを学ばせてください。

わたしはあなたが命をかけるほどに、大切にしてくださった者なのですから。


第四の神秘

イエスはカルワリオへの道を歩まれる


イエス様、あなたは救い主としてのいのちを全うされようとしています。

まるで、大気圏に突入した流れ星が燃えて光を放つように。

わたしたちはあなたのように、十字架につけられることはないかもしれません。

しかし、このいのちの終わりに向かって日々、歩んでいる者です。

わたしの時間は、わたしのいのちです。

どうかそのいのちが、存分に光り輝き、あますところなく用いられるものでありますように。

わたしの十字架は、何も特別なものではなくても、わたしの生きる道、生きているということそのものです。

どうかそれを最後まで投げだすことのないようにしてください。

あなたは何度も倒れられましたが、助けも得て、歩き続けます。

私たちの人生もそのようでありますように、助け導いてください。


第五の神秘

イエスは十字架上で死去する


イエス様、あなたは人生の最後に血と涙を流され苦しみ叫ばれましたが、同時にご自分を痛めつけた人々をゆるし、成し遂げられたといわれ亡くなられました。

わたしたちの最期も、悔いやわだかまりが除かれ、ちいさな「成し遂げられました」を言って迎えるものでありますように。

あなたが死を与えてくださるその時にこそ、それを両手でいただくものとしてください。

また、一日一日、小さな死を迎え、またいのちを与えられて生きるものとして、

日々生まれ変わって、軌道修正して、あなたに向かってあなたを慕い進んでいく者につくりかえてください。



主の祈り

主の祈りは語りつくせない祈りです。

でも、とりわけこの祈りをするときにはわたしの心には「誘惑に陥らせず悪からお救いください」が響きます。

自分で自分に絶望するとき、心はどんどん悪循環に陥っていきますが、それをこの祈りは断ち切りましょうと促しているように感じられるのです。


アヴェ・マリアの祈り

この祈りではイエス様に祈りながら一連をスタートしましたが、その旅路をすすんでいく祈る者の肩にやさしく添えられ、ときに背中を力強く押してくださる聖母の手をイメージしました。

アヴェ・マリアの祈りの前半はルカ福音書の賛美のことば、

後半は、ヨーロッパでコレラやペスト、戦争などの危機に際してひとびとが唱えた祈りであったといわれています。

こころの危機の時も、マリア様のとりなしをお願いしましょう。


栄唱

聖公会では栄光の歌ともいわれるのですが、

天国で天使たちが神さまに直接まみえて歌っている賛美のことばに心をあわせるシンプルかつすばらしい祈りです。

願うことはすでにかなえられたと信じ、神さまを賛美したいと思うのです。



はしがき

この祈りの源泉は、病気の苦しみを「なおして」「いやして」との願いよりも「ささげます」という信仰的表明としていった聖テレジアなどのシスターたちや、むち打ちなどの苦行をしていた修道者たち、マイスター・エックハルトなどのキリスト教神秘主義者、病を持ちながらも、いや、むしろその病をもってこそ信仰者として生きた先達たち、聖路加国際病院の日野原重明医師など、多くの人々の断片的なことばを紡ぎ合わせていって、わたしの祈りとしたようなところにあります。

病気を治して、なくしてと祈らないのは、神癒を信じておられる立場のクリスチャンからしたら、なんとも煮え切らない祈りにも見えるかもしれませんが、わたしは「病気が治りますように」という祈りは、もちろん基本的な願いとしてあるのだろうけれども、その病気という状態はなくさなきゃいけないと否定しているような感じがするのです。キリスト教はもっと現世利益的なところを脱していて、どんな状況でもオールカバーの懐の深い教えだと思っていて、「病んでいるところをもっていて、かつ、生き生きと生きています、信仰生活を送っています」ということが可能な教えだと信じているのです。

論文で論じたことがあるのですが、パウロがその書簡の中でさまざまな艱難をあげ、「死にかかっているようでいて、生きており」(※新共同訳)といいますが、ここの原文に丁寧にあたっていくと、「死にかかっており、かつ、生きている」という文にも読めるのです。


【論文】メンタルヘルスと教会ー存在論的な苦しみに応答する宗教的コミュニティー|Meg|note


病、あるいはそこまでいかないまでも、なんだかしんどい。それはそのままそこにあるけれど、わたしは生きています!いのちを持っています!

それは現状に甘んじた逃げでも諦めでもなく、むしろ創造的な信仰のありかたではないでしょうか。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました💓


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