「双極性気分変調症害、鬱期の覚書。」2022/05/29〜2022/06/02の雑記

数日間、日記が書けなかった。うつ状態になっていたから。

 長旅から帰宅後の数日は、宿泊地のすばらしさと自宅の(み)すぼらしさに打ちのめされて鬱になり、外に出れなくなっていた。鬱の再発と、再安定化が起きた。

・原因

暑くなった気温、身体の怪我、部屋の狭さ、外から聞こえる音のうるささ、捨てなければならない蠅が集った生ゴミの廃棄、枯れた植物、片付けなければならない部屋、捨てなければならないもの、自炊、減っていく金、納めなければならない金。

ありとあらゆることが面倒になって、目の前に広がる状態も環境が意志力をすり減らし続け、指先ひとつすら動かせなくなった。

鬱状態はいつもこうしてやってくる、単一の一つが理由なことはなく、毎度複合要因である。また死ぬことが合理的で、この状態こそ冷静で的確な判断ができるのだという観念から抜け出せなくなった。いつものこと。

・思考

躁状態も鬱状態も正反対の方向に思考が偏るので、その中間を取るくらいがおそらくはちょうどいいのだろう。死ぬ必要も生きる必要も、そんなにはないので、考えたところで仕方がない。

中庸、なかなか難しいことではあるが、結果的に生きてしまっているなら、それは目指さざるを得ない到達点である。それに近づく行動を、ただやるだけ。まぁそんなもんだろう。

なりたいものなどなくとも人は生きていけてしまう、死んだ方がマシだと思いながら生きてしまうのだろう。少なくともわたしは、そういう風にできているんだ。

そうしてるうちに、いつか生死の線を飛び越えるかもしれないが、どうにも現実感がない。差し迫った一人称の死はまだ、実感していない。


 気分屋なもので、自分を確実に健康にしてくれることすらも継続しづらい。習慣の安定には精神状態の安定が必要らしいが、精神を安定させるために習慣化したいのに、習慣化のためには…ってどうすりゃええねんという話である。

 自分で選んだわけでもない100人に1人の精神疾患。そのせいで何かを継続する難易度が超絶ハードモード。いやまぁ死にたくはなりますよそりゃ。いろんな憧れがあって、なりたいものはたくさんあって、やらなきゃ死ねないと思うこともあって、でもそれを手中に収めるために必要なことをできる状態を維持することすら叶わないってんだからさ。

 理解されることもないだろうし、こんなことを理解するメリットがある人がいるかどうかもわからない。なんとも、複雑、この回らない割に思い込みが激しい頭での推測など、事実でもなんでもないのだろうて。

 思考を減らして行動を増やすのが吉なのだろう。

・予防

夏はあまり遠出をしない方がいいのかもしれない。暑さは、生活のコストを著しく高める。ゴミ処理、換気、片付け。

ただ生きるだけで面倒なことが増える。一時期は待ち遠しかったが、夏、嫌いかもしれない。

まぁ文句を言って嫌ったところで、下がってくれる気温でもない。どう適応するか…密閉できるゴミ箱を買って、冷房に適切に頼る。

屋外では電解質を含む水分補給を忘れず、日除けできる場所で運動をし、水着か何かを常用して水浴びをしながら運動を楽しむなどなど。


・回復

ひとえに訪れてくれた親族のおかげ。今回ばかりは感謝せざるを得ない。この苦しみ自体を産んだ存在と解釈すると、いくらでも恨みを募らせることもできるが、素直にありがたいという気持ちの方が現状は強い。

 解釈はその時の気分次第でいくらでも変わる。気分が変わりやすい私にとっては、事実など皆無に等しい。自分が苦しみを抱きやすいように万物は流転する。ダーク♂諸行無常

 その曖昧模糊な気分屋の中から、他者に対する肯定的な感情が珍しく排出されたので、そのことだけを反芻したい。それは長期的に自分にとってメリットになるから。

 日常的な生活の諸々を話す相手がおらず、この日記に書き殴るくらいのことしかできない。だから、それが話せて随分とスッキリした。話すことで明確になる気持ちが、感情が、思考が、価値観がある。整理される経験がある。

・後悔

その相手を自力で見つけられないこの半生が、情けないことこの上なし。ガイジやけんしゃあなしやなと開き直るしかない。私の取り留めない思考の奔流を聞き入れる人間などどこにいるのだろうか。相手の負担になるだけだろうて。

 それが薄らわかっているから対人関係のコストを支払ってまで、そんな迷惑をかけようなどとは思えない。申し訳なくてできない。興味がなければ関わる気がゼロで、吐口として興味のない人間を使えるほど器用でもなく、パーソナルな部分を曝け出すほど他人を信用してもいない。

 自己開示ができないのは、虎になってしまいそうな尊大な羞恥心と、臆病な自尊心のせいなのだろうな。どこで何をすれば矯正できるのやら。怖い。

自分が自然体でいるだけで、排斥されるということを何度も繰り返してきて、他者に拒絶されることが、前提の思考回路になっているようだ。

 そういう時、自分を曲げて適応させることができなかった。かといって自分を押し通すのに必要な秀でた能力もなかった。だから向き合うことから目を背けて引きこもった。

そうすれば正しさを証明しなくても生きていけた。生きていけてしまった。そのツケを今、支払っている。

・諦観

最近は何をどうすれば良いのかわからないことが増えた。

答えの出ない問題など。考えるだけ無駄なので、具体的に取れる行動が思いつかないことは、もう全部スルーして生きていこうと思う。

未来の計画は立てられない、何かを我慢することはできない、社会的な魅力はない、”まともな”友人関係はできない、何かを継続し続けることはできない、精神が安定することもない、金はない、自由も減る、また気を病むのは目に見えている。

その中で、どう生きるか?
考えるのはやめる、どうせ答えは出ないから。

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