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山月記について

私が山月記を読んだのは高校2年生の現代文の授業のときでした。

山月記自体は面白くて好きなのですが、「李朝のようになるなよ」という教材としての読解が気持ち悪く感じて、そこは面白くなかったです。

今回は、教材としての読解もせず中山敦が伝えたかったことも汲み取らず、私の感想を綴ります。


虎になった原因

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。
理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

この発言から、彼には「なぜ私が?」という意識があったのだと推測できる。虎になったのは自分のせいではないと言った口ぶりだ。

しかしその後「思い当たることが全然ないこともない」と、自身が虎になってしまった原因について次の3つを挙げている。

①臆病な自尊心と尊大な羞恥心
②妻子を大切にしなかったこと
③詩への執着心

要するに自分の醜い心が姿まで醜くしてしまったということだろう。


李朝は自分を冷静に分析しつつも、過去の行動をはっきり否定する発言はしていない。強いて言うなら「悔いている」という発言があるくらいだ。このことからも「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が見え隠れする。

誰にでも醜い心はある。李朝はそれをコントロールできなかった。果たしてそれが虎になるほどのことなのだろうか。虎に値するものだろうか。



虎にはプライドもないし、なにかに執着することもない。ただ本能のままに行動する。それは生きるということ。虎は生に忠実である。
でも李朝は違う。プライドが高く、詩に執着し続ける。人と交流することもない。非常に生きにくい人間だ。
虎と李朝はかけ離れている。

李朝が虎になったのは李朝の内面が外面に現れたから?私はそうとは思えない。
李朝は醜い心ごと全てを捨てようとしたのではないだろうか。なにも成し得ることなく歳をとる可哀想な人間になりたくなかった。なにより、このままじゃ生きていけないと悟った。人間として生きるには臆病な自尊心と尊大な羞恥心が大きな障害であった。
だから臆病な自尊心と尊大な羞恥心によってそれもろとも全てを投げ出そうと思った瞬間に虎になった。
ただ、簡単に投げ出せるはずもなく虎の姿でありながら人間としての意識も残っている状態となってしまった。葛藤しているのだろう。それでも日に日に虎になっていく。それは解放を意味する。李朝も分かっていることで、少しずつ諦めがついているように思える。


虎と化した者


李朝だけが虎になったのだろうか。李朝の他にも虎となった者はいると思う。
電車で1人で怒鳴っている人、道端で酒を飲んでいる臭い人、家にずっと引きこもっている人、そういった人たちも李朝と同じく「虎と化した者」だと私は感じる。

プライドが高いため低所得の職に就くことを拒み、自分の能力を伸ばすこともしないため高所得の職に就くこともない。とか。プライドが高く自分を過信しすぎている故、結局プライドを捨てた生活を送る羽目になってしまう。 

自分のどうしようもない醜い心に気付いたとき、それごと捨てて人間を辞めないと生きていけない者もいるのではないだろうか。生きるにはそうするしかない。醜い心というのは誰にでもある。しかしそれを克服する力は限られた人にしかないと私は強く思う。向き合うことすら出来ない、どうしようもない猛獣を心に飼っている人がいる。その人は死ぬか、人間を辞めるか。それはしょうがないことだ。

私も李朝と同じく、プライドが高い。自分の力を過信し、能力を伸ばす努力をしない。どうしてもできない。
分かっているのにやらない。なんでやらないのか自分でも分からない。自分には生きる適性がない。治らない。一生この雑魚な自分と向き合うのは到底出来そうにない。
だから高校2年生のとき死のうと試みた。でも死ねなかった。そのとき家族が泣いていてそれがとても辛くて、自分が雑魚であることよりも受け入れ難い悲しみだった。私には家族を愛する力があって、本当の本当にどうしようもない奴ではないだと気付いて、死ぬのはやめた。
とは言っても、通信制の高校を卒業した今、職につくこともなくただただ日々を消費するだけだ。虎なのである。人間としての意識はまだ全然残っている。この意識がいつかなくなるのだろうか。果たして、完全なる虎になってしまったとき、生きる意味はあるのだろうか。私は人間でいたい。人間の心が消えないうちに死にたい。さっき言ったことと矛盾していて自分の気持ちを整理できていない状況だ。
今は自分の醜い心にどう太刀打ちすればいいのか分からない。自分には克服する力がないと完全に思い込んでしまっている。それでも、人と関わることでなんとか人間の意識を保てているのだと思う。
虎の姿から人間の姿に戻ることは出来るのだろうか。さっさとプライドを捨てて人間らしい生活をしたい。でもこのプライドが自分そのもので、プライドを捨てることは自分を捨てるような気がしてしまう。結局雑魚な自分でも自分だからすごく大切で、手放せないのだ。


李朝のようにならないでと言われても、私は困り果てますよ。



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