何故学ぶのか
齢29にして、フィニッシングスクールに通い始めた。
フィニッシング(仕上げ)のスクールとは、元来結婚前の女性が備えるべき文化的な教養・マナー・社交術・美容・料理・家事等を教わる所。
私が通いはじめたスクールの先生は日本初のフィニッシングスクールの校長をされた方で、いつお会いしても涼やかで凛としており、人生の大先輩ながら少女のような無邪気さが滲み出ている。
私は小さい頃から日本語が好きで本をよく読んでいたお蔭か、中学の時には国語の模試で全国一位を取ることもあった。生まれてから一度も疑いなく自身を日本人として自覚し、ある程度立派に日本語を操っているという自負があった。
中学三年生の時父の仕事の都合で海外に引っ越し、現地ではインターナショナルスクールに編入した。海外に渡り、様々な言語・文化に触れたことで、私は日本にいる時以上に自身が日本人であるというアイデンティティを自覚し、と同時に、にもかかわらず日本のことをまったくほとんど知らない自分に気づいた。
季節のしきたりにちなんだ歴史、お茶、お花、風呂敷の扱い方、能と歌舞伎の違いも人に説明できない。
自国のことも碌に知らず、明瞭に説明できない人間が真の国際人にはなれる訳がない。帰国したらもっと自国について勉強し、日本人として胸を張って生きていけるようにならねば。
そう思いつつも、大学では関心の強かった国際政治と異文化トレーニングを学べる学部に入り、ひょんなことから新卒で入社したのはIT企業。必死に営業の仕事に取り組むうちに5年6年と経ってあっという間にいい大人と呼ばれる年齢になってしまった。
仕事は充実している。人にも恵まれている。
だけれど、確実に欠けていっているものがある。
ちゃきちゃきとお客様に寄り添いタスクをこなしていく毎日も悪くはないはずなのに、日に日に空虚が増す。
私の心にある『はてしない物語』のファンタージエンの危機を自覚した。
教養、文化、歴史に隠されている情緒と感性。
そこから生まれる瑞々しい表現。
豊かな感性、豊かな意識、豊かな言葉の中で生きていきたい。
そう思ってフィニッシングスクールの門戸をたたいた。
フィニッシングスクールというと、いわゆる「形式」を学ぶことが目的と思われがちだが、実際には教養や文化に隠された「意識」を学ぶ場所だと思う。事実、私の通っているスクールでは実用的なレッスンは後半にあり、前半は「エレガンス」とは、「マナー」とはといった概念的な説明から始まる。これはとても大切なことだと思う。何かを学ぶ際に「形式」を学ぶことがゴールになっては本末転倒、「何故それを学ぶのか」を最も一番先に理解すべきだ。型だけを学び一見世間に順応しているように見せるのは、ある種何も学ばないことよりも厄介だと思う。
何故フィニッシングスクールに通うことに決めたのか。
私なりに考えた。
美しい心、美しい言葉を使い、感性を磨いて精神的に豊かな意識を使える人間になりたい。日本人として日本の文化、マナー、歴史を知ったうえで胸を張って海外の人とも交流していきたい。
それが私のスクールに通う活力。
型だけを学んでも人生は豊かにならない。
その裏側に隠れる真心、感性を体現している先生のもとで学びたくて通うことに決めた。
これからの人生、死ぬまでワクワクして生きて見せる。