先生!インボイスで買いたたかれないかと不安です〜フリーランスの契約事件簿
第3回
ビジネス街の中、一本の路地を入ったところにひっそりと佇むバー「Legal」。この店は、契約の悩みを抱えるフリーランスが夜な夜な集まることで知られている。どうやらそこには、フリーランスの悩みごとに答えるさすらいの弁護士がいるというーー。
「ジンリッキーをいただけますか」
その日、バーに訪れたのは、フリーランスのカメラマンであるイチローだった。グラスにライムを絞りながら小さく首を振ったイチローは、カウンターの端でバーボングラスをくゆらせる男に目を止めて、ほっと息を吐いた。
「……さすらいの弁護士、フジハラさんでは? 私、フリーカメラマンのイチローです」
そう呼ばれた男・フジハラは、「聞きましょう」とうなずいた。
免税事業者は消費税分の減額もやむなし!?
イチローは、雑誌や書籍、ウェブメディアなどの媒体を中心に撮影をするカメラマンだ。もともとはある出版社の専属カメラマンとして正社員で働いていたが、5年前に独立してフリーランスになった。
「出版不況と言われて久しいなか、撮影料も相手側の言い値で決まることが多くて。そこにきて、今回のインボイスです。私は売上高1000万円未満の免税事業者なので、登録はしないと決めていたのですが、それでよかったんだろうかと……」
そう言うと、イチローはカバンから1通の封筒を取り出した。
フジハラが書面に目を走らせると、そこには『10月より、撮影料の改定をいたします。適格請求書発行事業者の登録番号をお知らせいただけない場合は、消費税分のお支払いはできません。一律10%の価格引き下げをさせていただきます』と書かれていた。
「まさかこんな一方的に値下げを通告されるだなんて、寝耳に水ですよ」
イチローがインボイスの登録を見送った背景には、現在の取引先は自分の写真を認めてくれている、という自負もあった。編集者や撮影スタッフとも良好な関係が築けていて、免税事業者であることを理由に減額されたり、発注を控えられたりすることはないだろう、と判断したのだ。
「ほかにも取引先各社から、インボイスの登録に関するアンケート調査がありましてね。インボイスの登録はしたか、する予定はあるのかって。ある会社のアンケートには、『弊社としては登録をおすすめします』なんて書いてあって、背筋がひやっとしましたよ。登録しなかったらどうなるんだろうかって」
イチローの前には、口をつけられないままのジンリッキーのグラスが汗をかいている。
「先生、免税事業者のままでいると買いたたかれちゃうんでしょうか……?」
インボイスを理由にした価格の引き下げは違法となる可能性がある
「これはかなり露骨だな……」
さすらいの弁護士・フジハラはひとりごちると、イチローに向き直った。
「報酬の減額を通告してきた取引先とは、どんな契約を結んでいますか?」
「この業界は口約束での発注も多いですし、この会社とも特に契約書は交わしていません。ただ、私はもう3年ほどこの会社が発行する月刊誌『A magazine』で料理連載の撮影を担当していて、年初には担当編集者から『今年も1年間の連載、よろしくお願いします』というメールをもらっています。ええっと、ほら、メール履歴にも残っていますよ」
担当編集者からのメールには、引き続きイチローに連載を1年通して依頼したい旨が書かれていた。また、「毎月の撮影日・納品枚数・納品期限・ギャランティに関しても、これまで通りでお願いします」という一文もある。
「このまま減額に同意せず仕事をして減額後の代金しか支払われなかった場合は、下請法の『一方的な代金減額』にあたる可能性が高いですし(事案によっては独占禁止法の『優越的地位の濫用』にあたる可能性もあります)、法的には差額分を請求できる可能性が高いですね」
イチローが見せたスマホ画面に目を落としながら、フジハラはこう告げた。
「『A magazine』の連載は、年初に1月号から12月号までの発注を受けて、仕事の内容も価格も合意していると認められる可能性が高いです。しかし発注主は、イチローさんが登録事業者にならないことを理由に、契約の途中で減額を通告してきました。イチローさんとの取引については、仕入れ税額控除ができないため、発注側の税負担が重くなる。その負担分を、イチローさんへの支払いを減額することで相殺しよう、というわけです」
フジハラは、今回の取引が下請取引(取引先の資本金が1000万円超の場合)にあたることを前提として、下請法違反等になると判断した。ポイントは、以下の2点だ。
ひとつは、業務の内容、ボリュームが決まっている案件で、事前に12号分の業務内容と報酬金額について双方ともに条件の合意がされていると評価される可能性が高いこと。
ふたつめは、双方が合意した契約について、協議なしに一方的な価格変更が通告され、代金減額がされること。
しかし、フジハラの説明を聞いても、イチローの表情は冴えない。
「やっぱり免税事業者のままでいる、という判断は間違っていたのかなぁ。取引先の負担が増えると聞くと、なんだか申し訳ない気持ちになってきました……」
うつむくイチローに、フジハラは静かに、しかし決然と語りかけた。
「そんなふうに考えるものではありませんよ。そもそも、これまでイチローさんが編集部の提示する報酬額で仕事を引き受けてきたのは、消費税分も含めて手取りになるという判断があったからではないですか? 発注側も免税制度の恩恵を受けていた、とも考えられます」
あわせてフジハラは、免税事業者との取引には、経過措置が設けられていることも指摘した。
2026年10月までは80%、2029年10月までは50%の控除ができると定められているのだ。つまり、今後3年間は、発注側が仕入れ税額控除できないのは「仕入れ本体価格の約2%」ということになる。
「いきなり一律10%の値下げを要求し代金を減額するのは、インボイス制度に便乗した一方的な代金減額として下請法等に抵触する可能性が高いでしょう。また、先程申し上げたとおり、減額分を請求できる可能性もあります。こうした事例については、公正取引委員会でも厳正に対処するという方針を示しています。公正取引委員会では、相談窓口を設けて問い合わせを受け付けています。」
「また、仮に、事前に今後の業務内容と報酬金額について双方ともに条件の合意がされていないと評価される場合であっても、課税事業者になるよう要請するにとどまらず、課税事業者にならなければ取引価格を引き下げるなどと⼀⽅的に通告することは、買いたたきとして違法になるおそれがあります。」
交渉のよい機会に
「でも、私はこの会社を罰してほしいわけではないんです。今からでも課税事業者になることも検討してみようかと……」
法令違反の可能性がわかってもすっきりしないのは、今後の仕事の行く末に不安が残るからだ。10月からの減額について違法性を主張し、予定通りの報酬を得られたとしても、その後の編集部との関係性はどうなるだろう。来春からの連載は、別のカメラマンが担当することになってしまうかもしれない。
思い悩むイチローに、フジハラはやさしく声をかける。
「そうですよね。通報や訴訟は最終手段。まずは、お互いに話し合うことからスタートすればいいんです。インボイス登録のための課税事業者転換によって新たに発生する納税額を、誰がどのくらいの割合で負担するのか。これまで、発注側の言い値で価格が決まっていたならなおさら、インボイス導入を価格交渉の機会と捉えて、話し合いの場を持てるとよいでしょう。
また、もしイチローさんが、この通告をきっかけに課税事業者になることを決断した場合は、発注側の要請に応じてインボイス登録をした、と考えられます。相手の求めに応じて課税事業者になったにもかかわらず、一方的に免税事業者時代の価格に据え置かれることは、下請法の買いたたきにあたる(事案によっては独占禁止法に触れる)可能性があります。課税事業者になる場合も、発注側と真摯な話し合いの場を持つことが大切です」
イチローはジンリッキーを飲み干すと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「免税事業者、課税事業者、どちらを選択した場合も、価格についてきちんと交渉していくことが大事ってことですね」
知識を武器に交渉の土俵へ
「マスター、同じのをもう1杯」
ふっきれた表情で2杯めに口をつけるイチローに、フジハラはこれからの対応についてもアドバイスを送った。
「取引先との建設的な話し合いをするためには、インボイス制度の仕組みを理解していることが前提になります。税務については税理士さんに一任、という人もいますが、交渉の際にも知識は必要です」
「免税事業者であり続けるという選択をした場合、確かに『A magzine』との交渉では、まず経過措置があるから出版社の負担はそもそも10%増ではない、ということを言えますね」と、イチローも大きく頷く。
「そう、その通り! 知識はフリーランスの武器になるんです。アンケートが送られてきている取引先とも、これを機会に話し合いができるといいですね。仕入れ税額控除の金額に関わる問題ですから、発注側が登録の有無を確認したいのは当然。また、誰と取引するかは、お互いに自由です」
免税事業者でいることで、競争において不利になり、仕事が減る可能性はないとはいえない。
取引先において、「フリーランスへの支払消費税の一部または全部について仕入税額控除が認められないこと(デメリット)」と、「フリーランスが上げる成果(メリット)」を天秤にかけた結果、免税事業者への発注を控えたとしても、それ自体が咎められることはないという。
「だからこそ、価格交渉や話し合いが重要です。課税事業者になった場合、単価の引き上げに応じてもらえるかということも含めて協議することで、免税事業者のままでいるか、課税事業者になるか、よりご自身でも納得のいく判断ができるようになるかと思います。
また、取引についてはきちんと契約を結ぶということを意識してほしいんです。一方的な代金減額は下請法等によって禁止されています。とくに定期的な仕事については、期間や単価について書面で残しておくことが、自衛にもつながります」
いつの間にかペンを手にしたイチローは、コースターを裏返すと「インボイス制度確認」「価格交渉」と書き付けた。
「先生、私は、フリーランスになってからずっとお金の話は野暮だと、相手側の言い値で仕事をしてきました。でも、今回のインボイスは、報酬額について取引先と対等に話をするいい機会にできるかもしれない。自分の仕事の価値を信じ、自分を守れるのは自分しかいない。前向きに行動していこうと切り替えられました」
フジハラは黒烏龍茶の入ったバーボングラスを持ち上げると、「乾杯」と微笑んだ。
こうして今日も、「Legal」の夜は更けていくーー。