幻を見ている
シャルル・ボネ症候群というのがある。私にもずいぶん前からその症状が出る。欠けた視野を脳が補おうとした結果現れる「幻視」らしい。視力が低下した高齢者に多いようだけれど、強度近視で視野が欠けている私にも起こるのは不思議ではない。
大学1年生の頃、急に中心の視野が欠けてしまった。片方の目だけ、中心が見えない。色はなく、もやもやとした、あえていうなら灰色の部分がある状態だった。片眼とはいえ、文字を読むのにストレスがかかり、困ってしまった。
かかりつけの眼科に診せるも「二十歳前の女性がかかることはほとんどないんだけど、うーん。あれかなあ、もしかすると…」と首をかしげるばかりで、なかなか診断名がはっきりしない。本であらかじめ調べてあった病名を伝え、これではないかと尋ねると「その可能性がないわけじゃないんだけど」と大きな病院を紹介された。
そこで検査をしたところ、予想通りの診断がついた。その病気はしばらく治療して完治するも、ついでに網膜剥離が起こりかけている中心視野ではない部分も手術した方がいいということになって、その際にレーザーで焼いた部分が今も欠けた状態で、特に進行はしていないけれど、視野の中に存在している。
その欠けた視野には、私の場合は主に落ちてくる文字や数字が表れる。まるでマトリックスの、あの文字が高速でシャッフルされているような感じで、目を閉じても暗闇でも見えるので「あ~また出ましたね」くらいの心持ちでやり過ごす。
脳が見せようと頑張って作り出した幻が何なのか気にはなるけれど、解読できるスピードでもないし、おそらくさっきまで読んでいたテキストの一部が高速で落ちているだけで、普段からあまり映像を見ないのでそういう嗜好が表れているに過ぎないのだろう。
ごくまれに人の顔が見えることもある。実家を出て一人暮らしを始めたころ、孤独すぎてついに人の幻が見えるようになってしまったのかと思ったこともあった。じっと目を凝らすとどんどんディテールがはっきりしてきて、最終的には小指くらいのサイズの顔が空間にくっきりと浮かんだのだけど、そこにあるのは見たこともない顔で、脳が誰を作り出そうとしたのかは今でも分からない。
幼少のころ、空からお菓子がスローモーションで落ちてくる幻をよく見ていた。それはアポロのような市販のチョコだったりした。マッチ売りの少女のラストってこんな感じかなと思っていた。もしかしたら、そのころすでに視野が欠けていて、シャルル・ボネ症候群が始まっていたのかもしれない。
今はもう、お菓子が落ちてくる幻は見ないけれど、どうせだったらそういうのもたまには見てみたい。これについては、さまざまな要因がある気がする。お菓子が大好きな子供だった。今もそれは変わらずで、グミが手放せない。家の近くにおかしのまちおかがなくてよかったと思っている。(あったら毎日通ってグミを買い貯めてしまう)。だから、お菓子をもっと食べたいという強い思いが白昼夢となって表れた可能性もあるし、あるいは結婚式の伝統行事でお菓子撒きの風習が残る地域故の幻だったのだとしたら「空からお菓子がスローモーションで落ちてくる幻」は夢のような光景というより、トラウマによるフラッシュバックだった可能性もある。箱のお菓子が落下速度で当たるととても痛い。