【SUWA-淫祠の贄(仮)】_01
*文中の神社、祭祀は実際の名前を使用していますが
内容は全てフィクションとなります。
実験的にアップしている作品のため、内容についてはご容赦願います。
序章:失踪
10年前、大学の写真サークルに所属していた神崎翔太は、春の訪れとともに賑わい始める諏訪地方の取材中、忽然と姿を消した。
同行していた後輩の水鏡汐里は、彼の失踪に責任を感じ、以来その行方を追い続けてきた。翔太は、諏訪大社に伝わる御柱祭とそれ以前から行われていた御頭祭に、異常なまでに執着していた。特に、御頭祭の生贄の儀式について調べている最中、彼は忽然と姿を消したのだった。
第一章:再訪の地
2028年春、水鏡汐里はJR下諏訪駅のホームに降り立った。
微かに硫黄の匂いが混じった風が頬を撫でる。20年前と変わらぬ、
懐かしい春の風だった。高鳴る胸を抑え改札を抜けると、古びた木造の駅舎が彼女を迎えた。
見上げれば、抜けるような青空を背景にまだ雪を頂く八ヶ岳連峰が悠然とそびえ立っている。その雄大さは、都会の喧騒で凝り固まった心を解きほぐす力を持っていた。しかし、同時に過去の苦い記憶をも呼び覚ます。
「ここが、下諏訪…」
汐里は小さく呟き、胸の前で手を組んだ。彼女が手に持つボストンバッグには、取材用の機材と一冊の古いノート。そのノートには、翔太が遺した
御頭祭に関するメモと、彼自身が撮影した写真が収められている。
『御頭祭、生贄、毒沢の湯… 真実はどこに?』
ノートの最後のページには、翔太の筆跡でそう走り書きされていた。
30代となった汐里は、現在、出版社で編集者として働きながら、自身の連載コラムを持つまでになっていた。今回の諏訪行きは、そのコラムの取材というのが表向きの理由。しかし、彼女の真の目的は、10年前にこの地で忽然と姿を消した、大学時代の先輩であり、密かに想いを寄せていた神崎翔太の
足跡を辿ることだった。
タクシーで向かったのは、下諏訪温泉の老舗旅館「綿の湯」。
木造三階建ての建物は、歴史の重みを感じさせながらも、清潔感に溢れ、
旅情を掻き立てる。玄関先には樹齢100年はあろうかという枝垂れ桜が植えられ、ちょうど満開の花が彼女を迎えた。まるで、何かに導かれるように、汐里はこの宿を選んだのだった。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、60代ほどの浅黒い肌につややかな黒髪をきりりと結い上げた女将だった。どこか、この土地の古い伝承を体現しているような、神秘的な雰囲気を纏っている。
「水鏡です。予約していた…」
「お待ちしておりました」
女将は汐里を、諏訪湖を望むことができる古風な、しかし手入れの行き届いた一室に通した。春の午後の日差しが障子を通して柔らかく部屋を満たしている。窓の外には、穏やかな湖面がキラキラと輝き、遠くには御柱祭で賑わう上諏訪の町並みが見える。
荷を解き、一息ついた汐里は、早速取材を申し込んだ。
「綿の湯」の歴史、そしてこの土地に伝わる伝承について。
「この辺りには、"毒沢の湯"と呼ばれる湯がありましてね」
茶を淹れながら、女将が話し始める。
その声は、静かだが、不思議と心に響く。
「その名の通り、昔は毒が湧き出ていると恐れられていたそうです。
でも、実際には体に良い成分がたっぷりで、万病に効くとの噂でした。
その昔、この湯で、御頭祭の生贄を清めていた、という話もあります」
「御頭祭の…生贄…?」
汐里の背筋に、冷たいものが走った。女将の言葉が、心の奥底に眠っていた記憶を呼び覚ます。10年前、翔太が失踪する直前、彼が熱心に調べていたのは、御頭祭とそれにまつわる生贄の儀式だったのだ。
「ええ、昔は鹿の頭を供えていたそうですが、それ以前は…」
女将はそこで言葉を切り、汐里の顔をじっと見つめた。
「人間の娘が、生贄として捧げられていたという言い伝えもあるんです」
汐里は息を呑んだ。その伝承と、翔太の失踪は果たして無関係なのだろうか? 失踪直前、最後に見た彼の姿。いつもは快活な彼が、その時ばかりは、ひどく思い詰めた表情をしていた。
「…その話、詳しく教えていただけますか?」
自然と、奥歯を噛み締めていた。
女将は汐里の強い眼差しを受け止め、ゆっくりと頷いた。
「…昔、この辺りは飢饉や疫病で、大変な苦境に立たされていました。
村人たちは、神の怒りを鎮めるため、若い娘を生贄として捧げることにしたのです。その儀式が行われていたのが、御頭祭の前夜、この"毒沢の湯"
だったと言われています…」
女将の話によると、生贄に選ばれた娘は御頭祭の前夜、村人たちによって「毒沢の湯」へと連れて行かれる。そして、そこで身を清めた後、神への
捧げものとして、その命を絶たれたというのだ。
「その娘たちは、どこに…?」
「さあ… それはわかりません。ただ、"毒沢の湯"の近くには、古い祠が
あって、そこには、建御名方神と八坂刀売神が祀られているそうです。
もしかしたら、その祠に…」
女将は、そこで言葉を濁した。まるで、それ以上は語ってはならない、
とでも言うように。
「建御名方神と八坂刀売神…」 汐里は、その名を呟いた。諏訪大社の祭神である二柱の神。翔太が遺したノートにも、その名が頻繁に登場していたことを思い出す。
「…その祠、場所を教えていただけますか?」
「…あまり、気乗りはしませんが… でも、あなた、何か特別な使命を帯びているような気がする…」
女将は、そう言って、古い地図を取り出し、祠の場所を指し示した。
「…ありがとうございます」
汐里は、地図を受け取り、深く礼をした。
女将から話を聞いた後、汐里はさっそく諏訪大社下社春宮へと足を運んだ。太鼓橋を渡り、神楽殿を抜けると、やがて御神木である杉の巨木が現れ、
その奥に幣拝殿、そして左右片拝殿が控える。静謐な空気の中、熱心に手を合わせる参拝客たち。しかし、汐里の心は、焦りと不安で波立っていた。
社務所で、神職に建御名方神と八坂刀売神について尋ねてみる。
「建御名方神は、諏訪の地を治めていた神。八坂刀売神は、その后神です」 「二柱の神にまつわる伝承で、何か変わった話は…」
神職は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに表情を和らげ、語り始めた。
「表向きの伝承とは別に、もう一つの神話が伝わっています」
神職はそこで一呼吸置き、続けた。
「建御名方神と八坂刀売神…二柱の神は、激しく愛し合い、時にぶつかり合い… その姿は、人間の愛欲を体現しているとも言われます…」
神職が語る、もう一つの神話。それは、汐里が想像していた以上に、
エロスに満ちた、禁断の物語だった。熱く溶け合う二神の交わりは、
湖の水面にも映し出され、その姿は龍にも蛇にも例えられたと伝わる。
(まるで…私と、翔太さんみたい…)
奥底に秘めた熱いものが込み上げるのを感じ、汐里はそれを振り払うように、さらに神職に質問を重ねた。
「その伝承と御頭祭は、何か関係があるのですか?」
神職は、重々しく口を開いた。 「御頭祭は、元々、豊穣を祈願する祭り。
しかし、その裏には、二柱の神の怒りを鎮め、御神威を得ようとする、
もう一つの意味が隠されていると言われています…」 神職によると、
御頭祭で使われる古い道具には、建御名方神と八坂刀売神の交わりを象徴する紋様が刻まれているという。そして、その紋様は、ある場所にも残されているというのだ。
「その場所とは…?」 汐里が問い詰めようとしたその時、背後から
鋭い声が響いた。
「お客人、御用がおありでしたら私が承りましょう」
声の主は、初老の男性だった。鋭い眼光、筋骨隆々の体躯、日に焼けた肌。そのただならぬ雰囲気に、汐里は息を呑んだ。
「私は、この土地の者でしてな。御頭祭や、古い伝承にも詳しいつもりです」 男はそう言って、汐里に近づいてきた。
「何か、お困りのことでも?」
その眼差しは、まるで獲物を狙う獣のように鋭く、汐里は本能的な恐怖を
感じた。
「い、いえ、別に困ってなど…」
汐里は、震える声を絞り出すように答えた。
「そうですか、それはよかったですな」 男はそう言って、ニヤリと笑った。その笑顔が、汐里には、ひどく恐ろしいものに思えた。
その夜、汐里は東京にいるパートナーの雅紀に電話をかけた。
雅紀は、信州大学出身で、諏訪地方の歴史や伝承に詳しい。
そして何より、汐里にとって、最も信頼できる相談相手だった。
「もしもし、雅紀? 実は、諏訪で気になることがあって…」
汐里は、これまでの出来事、女将から聞いた「毒沢の湯」の噂、
神職から聞いた禁断の神話、そして御頭祭との関連について、
雅紀に話した。
「…なるほど、それは興味深いね」
電話の向こうで、雅紀が考え込む気配が伝わってきた。
「建御名方神と八坂刀売神の交わりを表す紋様、か…
もしかしたら、それは…」
雅紀は、ある古い文献に記された、諏訪地方に伝わる秘儀について
語り始めた。それは、建御名方神と八坂刀売神の力を借り、豊穣と繁栄を
祈願する儀式。そして、その儀式には、ある特別な紋様が用いられるというのだ。
「その紋様が、事件の鍵を握っている可能性がある」
雅紀は、そう結論づけた。
「気をつけて、汐里。その紋様は、ただの模様じゃない。何か、特別な力が秘められているのかもしれない…」
雅紀との電話を終えた後、汐里は、一人で考え込んでいた。
建御名方神と八坂刀売神の禁断の神話、御頭祭の生贄の儀式、
そして「毒沢の湯」の謎… それらは、どのように絡み合い、10年前の翔太の失踪事件と、どのように繋がっているのか?
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。しかし、『翔太の失踪の真相を、必ず突き止めてみせる』その強い決意が、彼女を突き動かしていた。そして、彼女の心の奥底では、もう一つの感情が渦巻いていた。
それは、翔太への想い、そして真実への渇望… それは、まるで、建御名方神と八坂刀売神のように、激しく、そして禁断の愛欲を求める心だった。
翌朝、汐里は再び諏訪大社下社春宮を訪れた。そして、昨日出会った
古老の男を探した。しかし、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
「あの男は…?」
汐里は、近くにいた参拝客に尋ねてみた。
「ああ、あの人なら、御頭祭の準備で忙しいんじゃないかな」
参拝客は、そう答えた。
「御頭祭の…?」 「ああ、今年は御柱祭の年だからね。御頭祭も、いつも以上に盛大に行われるんだよ」
汐里は、胸騒ぎを覚えた。御柱祭と御頭祭… 二つの祭りが、同時に開催される今年、一体何が起ころうとしているのか?
そして、あの古老の男は、何者なのか?
汐里は、意を決して御頭祭の準備が行われている場所へと向かった。
そこには、古びた木造の小屋が建っていた。中を覗くと、数人の男たちが、何やら作業をしている。その中に、あの古老の男の姿もあった。
男は何かの道具を手に、真剣な表情で作業をしている。
その道具には、雅紀が言っていた、あの紋様が刻まれていた。
汐里は小屋の中に足を踏み入れた。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
汐里の声に、男はゆっくりと顔を上げた。その目は、冷たく、そしてどこか悲しげだった。
「私に、何の用だね、お嬢さん」 男は、静かな口調で言った。
「10年前、ここで何があったの?」
汐里は、単刀直入に切り込んだ。
「…何のことだね」 男は、とぼけるように言った。
「とぼけないで! あなたは知っているはずよ。
神崎翔太がここで消えたことを!」
男の目が、一瞬大きく見開かれた。
しかし、すぐに元の冷たい表情に戻った。
「…神崎翔太、か。懐かしい名前だね」 男は、そう言って、薄く笑った。
その笑みには、自嘲と、そしてどこか遠い過去を懐かしむような響きがあった。
「彼は、知りすぎたんだよ。この土地の、秘密をね…」
(続く)