考察「セックス=愛」は本当か(無茶苦茶理論で解説)
こんにちは。
今日は泥のようにベッドにへばりつき
ほとんど溶けていたアラサーである。
気分転換にお風呂に入ったのに
パンイチで倒れていたら湯冷めした。
悲しい話だ。
そんな生産性皆無の1日を過ごしたわたしに
あと残された出来ることといえば
ここで今日生きた証を残すぐらいだよ!
なんなんだよ!くそぉ!!
(今日も安定の情緒不安定)
(安定に不安定)
そんな情緒はもう仕方ないので
そのへんに丸めて捨てておいて
今日は人間関係の話をしたい。
とりわけ、
セックスと愛情に関する人間関係について
ここ最近ずっと考え込んでいた。
まず人間関係への私の認識は
昔から常にドーナツ型で
ドーナツをドーナツたらしめる部分(穴)に
私がいる。
中心部に近いほど
わたしの心が開かれているという
仕組みである。
大体、
最高に心を許している最も近い部分、
まあまあ友人として
3%くらい心を許しているミドル部分、
あとはドーナツ外の他人、に分かれている。
図Aに位置する人は少なくて
その中でも主に仕事,恋愛/性,パーソナルの
三分野くらいで
心を開いている分野が分かれている。
図Aに位置している人でも
全て開いている訳ではなくて
各分野毎に分けてオープンマインドな
イメージなんだな。
図Bに位置する人は
割と多くて
友人知人と呼べる人は
少なくない。
人間に順位付けすんなよ
何目線だよという気持ちにもなるが
単に私のオープンマインド具合で
測っているので勘弁して欲しい。
ということを前提としてだ。
私の中で
愛とセックスに関する人間関係は
今のところ4パターンあるなと
バカ真面目に考察してみた。
愛情×セックス
愛情×友情
友情×セックス
セックス
パートナーに値する。
今わたしにはパートナーがいるんだけど
今のところセックスはしたい。
かつ、
幸せでいて欲しいなぁって愛情を感じる。
代替不可。友人と呼べる間柄なんだが、
それ以上の感覚を持ってる。
男性も女性もいるけど
男女問わずセックスしたいとは思わない。
でも幸せでいて欲しいなぁって愛情がある。
代替不可。所謂セフレ?なのか?
私がボーイフレンドと呼ぶ群だ。
セックスはしたい。
人間として楽しいし一緒に過ごすのも好き。
ただ愛してるかと問われると別に、である。
セックスパートナーとしては代替可能。
友人としては代替不可。これこそ世の中的セフレ概念に
当てはまると思うんだけど
単純に性的に興味がある。
人間としてはそんなに興味がない。
代替可能。
何の解説を聞かされているんだという
ツッコミはさておき。
こんな感覚なのだ。
この中の1.2.はさっき図で解説したAのゾーンに居て
3.はBのゾーン、4.は殆どCのゾーンに居る。
となると
愛することとセックスって
やっぱり無関係じゃない?
わたしの予測は証明されました。
(ガバガバ理論展開)
世の中、
「愛=セックス」
みたいなのが良しとされてるけど
セックスなんて唯の物理現象だと思うんだよな。
愛はもっと心の深淵部分に迫るような
感情的な想いな気がする。
(わたしのアラウンドサーティ年
生きてきた中で見つけた”愛”は
とにかく理由もなく
彼彼女等に幸せでいて欲しい
その為なら出来る限りのことを
精一杯心のかぎりするよ、
そういう意識だと思っている。)
だから両者をイコールするのは違和感。
ついでにいうと、
そんな物理現象で、
必ずしも愛情や心を開いているとは言えない
セックスにおいて
嫉妬する気持ちがあんまり分からない。
それよか
セックスの有無よりも
愛情の有無の方が
嫉妬対象にならないか?
つまり
1.のパートナーが2.に嫉妬するのは
まだ理解できるけど
1.が4.に嫉妬するのは何故なんだろう。
それって嫉妬心っていうより
物として、相手の身体への
所有欲とか独占欲なんじゃないだろうか。
とここまで大真面目に理論展開してきたが
こんな話を酔っ払って渾々と話し管を巻いていたら
「何言ってんだ」と一蹴されたので
私は無茶苦茶である。
みんなどんな感覚で
人間と付き合ってんだろうと思って
私の感覚を共有してみたくなった。
それだけなのでどうか
真面目に聞かないで欲しい。
(いやまじでほんと)