闘病日記(12)メイバランス

リハビリを続けているにもかかわらず右手の機能が徐々に落ちてきていることを実感しながら日々を過ごすのは辛かった。そこに痛みと痺れ、一向に改善されない目の揺れ(「眼振」という)、何重にも物が重なって見える症状(「複視」という)もずっとあった。朝起きると嘔吐してしまい食事が全く取れなかった。後になって知るのだが言語聴覚士、看護師、介護士の皆さんはどうすれば少しでも食事が栄養が摂れるかを懸命に考え工夫をしてくれていた。それでもどうしても何も食べられなかったある日を境に、濃いめのヨーグルト状のものを飲みやすい容器に入れたデザートが付くようになった。名前を「メイバランス」と言う。口当たりと喉越しが良いので何も食べられなくてもそれだけは食べるようにと声をかけてもらった。カロリーや栄養面から考えても、それを食べておけばどうにかリハビリをしても体力的にもつだろうと言うことだった。
「どうかなこれ? 大丈夫そう?」
看護師さんに助けてもらいながら少しずつ口にして、どうにか食べることができた。
「やったー。よかった!」
残さず食べた、と言うだけでとても喜んでくれた。「メイバランス」なら食べられるということがわかると、
「今日はバナナヨーグルト味にしてみたよ。味に変化があったほうがいいと思って。どう?」
「おいしい。これ好きです。」
「よかった!」
こうして、病室のベッドの上で何とか栄養食を食べられるようになってきたので、食堂へと向かってみた。
しかしやはりめまいが激しく、皆が食べている食事をすることはまだ無理だった。
その場に居ることがしんどくなってしまい、介護士さんにお願いして部屋まで連れて帰ってもらった。
その時、介護士の男性が言葉をかけてくれた。
「ワンステップ進みましたね。赤松さん。」
何も食べれず食堂を後にしたことを気恥ずかしく思っていたので、その言葉に驚いた。
「でも、結局帰っちゃったし。食器も天井のライトも何重にも重なって見えてとても辛いです。」
「今日、食堂に送っていけて、とてもうれしかったですよ。まずは行けたんですから、そのことを誇らしく思いましょう、ね。」

その日以来、その介護士さんの言葉を思い出しては食堂へと向かうようになった。食べられないことも多かったが、少しずつ食事の量が増えていった。後になって、言語聴覚士の方から聞いたところでは、状態はかなりぎりぎりのところにあったらしい。いよいよ今日からはもう点滴か何か別の方法で栄養をとってもらわないといけないねと言うことに決まったその日に、なんとか少量の食事が取れた、との事だった。それからも何か困難な状況があると当時のことが話題にのぼった。それはすごく大変だった時期の1つの基準になった。「あの食べられなかった時期を考えると、今の赤松さんは大丈夫ですよ。」

時々見舞いに来る兄は、食事が取れるようになったことを知ると、
「え!? お前、今日餃子食べたん? 俺のは? 腹減ったなあ。明日の夕食の献立何やろ。献立表ないん? 壁に貼っとかんといかんな。」
と、わけのわからないことを言いながらも、食べられるようになったことをとても喜んでいた。
毎日のように洗濯物を取り替えたり必要なものを届けてくれたりする父は
「この前まで身体のいろんなところに管やら機械やらいっぱいついてたのに、全部取れたんやな。すごいなあ。よかったなあ。」
と、ゆっくりとかみしめるように言った。失ってばかりだった自分の体が少しずつ吸収を始めた。

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