「世の中には善も悪もない」を客観的に捉える
世の中には「善と悪」があるのかということについて考えてみた。
昔、正義のヒーローを見て育った人は多いだろう。
しかし、正義の味方の正義のヒーローは「正しい」という認識ならば、やられる側は必ず「悪」となります。
基本的には、わるいとされた場合は弁明の機会があり、裁判所にて理由が聞ける。つまり、フェアではなく不公平である。そうすると。正義のヒーローは「正しくない」のかもしれない。結果、理由も聞かないまま自分の正義の主観で「正しい」という価値基準で暴力になり、裁かれるのだ。
このように視点を変えれば、捉え方によっては、はっきり決めることは難しいです。客観的な視点を養えば「正しい」に対しての判断材料になるかもしれません。
自分の「正義」は何か?「善い」とする主観とは
「正義とは何か?」という問いがある。この点が密接に関わっているのではないでしょうか。
ギリシャの時代の教えでは、正義=平等 と導かれました。
「善い」とは生まれつきにではなく、環境や人間関係から構築される中での価値観と主観がすなわち自分の「善い」となる。
正義は「他人の中での善い」を指していたようです。
よって、正義とは、平等を中心として他人のために善を求める徳だったのです。
昔ははっきりとした上下関係だったこともあり、正義=平等という考えは浸透していましたが、いまの時代も同じく上下関係はあります。とても複雑で分かりにくい環境であり、形上の平等=錯覚が用意されているのです。知らないうちに設定されている社会にいますので、何がいまの時代が「善い」のかという選択の自由が今の時代の正義なのです。
つまり、自分の主観で決めた考えが正義なのです。
会社員で例えるなら、会社のために「他人のための善い」を行えば、社会的地位の「平等」を約束されるのでしょう。
客観的な感覚で捉える
この話題は客観的に捉えないといけない。コツとしては第3者の位置から傍観するイメージだ。映画を見ているように考えてほしい。
人間というのは身勝手である。自分の主観で生きているものだ。
この世には必ず、表や裏、陽と陰など反対の言葉や行動がある。
ひとつの出来事に対して、喜ぶ人や悲しむ人もいる。
その当事者あるいは外部の人は自分の主観と感情で判断するだろう。
もしそれが殺人事件だとした場合には、メディアの伝え方や陰謀論などあらゆる複雑なストーリーが現場では起きている。
これらの一連の流れに対して、事件が「悪」なのか?というのは100%ではない。事件が起きるのも理由があり、誰かがこの行動が得と思えば事件は起きるのだ。
よくある、愛する娘のために極悪のマフィアから娘を救うみたいな映画があると思う。あの時はどれだけマフィアの人間を殺しても主人公を応援しているものだ。もしあれがリアルであれば、悪は主人公なのでは?街の中では車で大被害を起こし、マフィア側にも家族が人質や親の介護のために働いてたいたりという人もいるかもしれない。例えば、メキシコのマフィアは普段は会社員をしながら副業はマフィアだったりする。全部が綺麗に悪ではないはずだ。
結果的にそれが幻想や洗脳、人質が絡めばあなたも善と悪の定義ではいつの間にか悪になる(される)だろう。
物事の裏に隠されたもの
このことから事件自体は「わるい」というのはわたしでも思います。
ただ、起きたことは致し方ない。そこには、必ず原因があるのだから再発を防ぐために日々、行動をしなければならないだろう。
ここでわたしのひとつの正義なのだが、浅はかで中途半端な知識で自分の正義を貫く人だ。全く構わないが責任とってその事件についての原因を調べて行動ができる者だけが、発言する権利があると思う。
つまり、社会問題や福祉関係で働いている方々の活動には全く頭が上がらないのです。その点を評価するのではなく応援するだけで良いのだ。
このように考えるのがわたしの「正義」なのかもしれない。
法律が悪を作ることもある
正義=平等が定義とするならば、数多くある巧妙な法律があるために真面目にやっていた会社は潰れたり、新たな社会問題が生まれているのかもしれない。
正直、この点においては、文句を言っても仕方ないのだ。
生まれた国や親は選べないのだからいまのこの社会に順応することが大事である。
このように、善と悪があるからと言って原因や行動をせずにただ評価しているばかりでは、この世はまるで不幸にしか見えないかもしれません。
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