幸福日和 #102「巡りゆくもの」
先日は孤島を離れて、
親族の最期の時を送りとどけてきました。
葬儀を終え、火葬場での収骨までの時間。
待合室ですっかり老いてしまった親戚たちと顔を合わせながら
皆の思い出を語り、昔を懐かしむ。
会話のむこう側では、
人の死というものを自覚していないだろう
まだ幼い甥っ子の無邪気なはしゃぎ声が響いていました。
これから人生を歩み始める人。
道半ばを歩んでいる人。
そして、その最期を送りとどけられる人。
いくつもの人生が、
その静かな待合室の中で重なり合う。
今まで経験したことのない
不思議な時間でした。
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「人の人生は、
どこまでも巡っていくのね」
普段、口数の少ない祖母の
その一言に耳を傾けながら、
僕は遥か遠くの空を、
待合室のガラス越しから眺めていました。
たとえ、ひとりの人生が終わったとしても、
別の誰かの人生の中で生き続ける。
祖母はそんなことを
言いたかったのかもしれません。
待合室のガラス張りの向こう側には
日本庭園が広がっていて
庭園中央にある岩場からは小さな滝が流れていました。
その水の流れを眺めていると
悲しみの涙のようにも感じられるけれど、
僕には恵みの泉のように見えた。
流れ落ちる水はどこへ流れゆき、
何を潤してゆくのだろうか。
そんなことを考えていると、
いつか、幼い頃に祖父の庭の手入れの
手伝いをしていた時のことを思い出しました。
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あれはまだ僕が10歳くらいの頃。
茶庭のすみに置いてある水瓶の中の水を
あけてくるように祖父から言われたんです。
水を捨てればいいのかと、
そのまま、側溝の流し口に流したら、
今までにない剣幕で祖父に怒られたのを覚えています。
大切に使ってきた水なのだから、
その水を手放す時も、
大切に扱わなければいけない。
捨てるのではなく、
巡らせていかなければいけないのだと。
思えば、祖父はどんな時でも「巡らせる」人でした。
湧水から炭でお湯を沸かし、
そのお湯でお茶を点てる。
お湯が残れば、
時間をかけて冷ましてから花や草木に与えていましたし、
時には路地を潤すために、
水を木桶にうつしてから、柄杓で丁寧にまくこともありました。
たとえ一滴の水であっても、
形を変え、時を越えて、
どこまでも巡っていくべきものなのだと
祖父は、そうやって一杯の水にもおもいを込めていたんです。
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そんな昔のことを思い出しながら、
収骨までの1時間30分。
僕は火葬場の待合室から
しばらく庭園を眺めていました。
たとえ荼毘にふされても、
決してなくならないものがあります。
残された者の心の中に
残り続けるもの。
そしてそれは、
誰かの一生が終えるまで、
その人の中で生きつづける。
自分の中に巡りゆくものを
感じています。